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2011年3月の記事

2011年3月30日 (水)

超高圧セメントミルクで固めたら・・・どうよ

福島第1原発で放射能漏れが起こり、建屋が爆発して、炉心の温度が上がって、海水をぶっかけて・・・
そしたらその水が放射能の汚染されていて、更に燃料棒が溶融して、プルトニウムが溶け出して、排水口から海水に流れ込んで・・・・

収拾するどころか、どんどん極限へ悪化してる。
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フランスに応援頼んだのは良いとして、これからどうするかって時に、

原子炉に隣接するタービン建屋の地下には「残留熱除去系」など原子炉本来の効率的な冷却機能復旧に重要な配電盤や電源ケーブルが存在しているものの、放射能レベルが高くて危険。
2、3号機は復水器が満水状態な上に、復水器の水を移す「復水貯蔵タンク」も満水。

近くに穴を掘って移すとか、タンカーを横づけして移すとか、挙げ句の果てに吸着剤の紙で吸うとか、出来そうだが、段々幼稚になってるし・・・。だいたいそれをやるのは誰 相当作業員の被曝リスクは高いので、「死んでくれ」と言ってるようなもの。


そこでサラーッと考えてみても、直ぐに思いつく方法がある。


要するに、原子炉周辺には水がたくさんあって、これ以上冷やせないし、溢れた水が排水口からどんどん外に出てる訳だから、いっその事、格納容器の中にセメントを流し込んで、汚染水ごと固めたらどうよ

水が溢れた状態ではセメントは固まらないと思っているかもしれないが、
ところがどっこい、固まるものがあるのだなこれが

『セメントミルク』と言って、これは水と反応して固まるセメントで、昔、青函トンネルの掘削作業中に、海水が溢れ出してトンネル工事が出来なくなった時に開発された、優れもの。


最も最新のものは、アルミナセメント+硫酸アルミニウムで出来ていて、これを超高圧で注入すると、アッという間に固まる。
これを放射能汚染水の中に超高圧で噴射して、原子炉本体と建屋の中をセメントミルクで埋め尽くせば、簡単なような気がするんだけど、ド素人考えかな・・・
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超速乾接着剤のように超高圧でセメントミルクを吹き付けると、直ぐコンクリート化する。


あとはゆっくり固まったコンクリートの上から水を掛けていれば、一年もすれば少し落ち着くんじゃないかなと。


それからちょっと気づいたんだが、
『放射性物質を含んだ粉塵が拡散するのを防ぐため、合成樹脂を主成分とする液体を散布すると発表』と出たが、それってもしや、犬とか猫を室内で飼っている時に、尿を砂ごと固める薬剤の事かな? テレビ局が賢明に説明していたけど、

しっかり固める猫砂。475円 (税込 498 円)

に何か似てるような発想だけど、大丈夫か?



サンデー毎日緊急増刊 東日本大震災 2011年 04月号

2011年3月26日 (土)

東北関東太平洋沖大地震、経過3

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2011年3月13日、宮城県南三陸町の南三陸警察署に半旗が掲げられた。しかし日本で半旗を掲げた所は非常に少数だった------。




連日テレビを見ていても、半旗を掲げている光景は全く映らない。
災害現場の驚愕する災害写真と、原発事故の行方と、大勢の避難された人々の様子。しかし東京の街角の映像を見ても、大きなマンションやアパートのベランダにも、ビルにも、商店にも、ハイカラなフッションビルやショップでも、ましてや個人宅でも、「半旗」はおろか「日の丸」も掲揚されていない様子。


驚天動地の連続でそれどころでは無いのか、それとも個人宅では全く無関心なのか、或いは国旗が無いのか・・・。


停電回復後、盛岡市内の国旗店に電話をすると、小さいマラソンの時に応援するような国旗は売れてしまっているが、大きいものは残っていると言われ、かなり残念だった。
食料やガソリンの確保に奔走しているかもしれないが、せめて「日の丸」国旗だけは掲げる時間があるだろう。

もっと冷静にならなきゃいかんよ
と、内心呟き続けた。

今朝も冷え込んで、雪が降った。
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私もベランダに半旗を掲げた。
日本人としての、大きな誇りを忘れないために。


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停電復旧直後に、パラボラアンテナを東経166度に向けた。

でも木綿の国旗は大丈夫だった。



2011年3月21日 (月)

東北関東地方太平洋沖地震、経過2

「ご先祖様に、報告」

 今日、春のお彼岸と言う事で、大地震後、初めて町内に出て、ご先祖様が居るお寺にお墓参りに行って来た。震度5強に襲われた町内だが、墓石は何ともなかった。


 お寺の隣にある小さな商店はちゃんと営業していて、花も置いてあったので、2束買って、お墓に供えた。いつもはたくさんのお墓参りの人が来るのだが、圧倒的に少ないものの、何人かと挨拶を交わしながら、ご先祖様に今回の事を報告。
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 お墓には昔から、願い事を言ってはならないと言う教えがあって、私はご先祖様に報告する事と、先人が残してくれた生きるための知恵と工夫に、改めて感謝した。


やはり言い伝えは間違っていなかったのだ。

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振り返れば、私は何故、あの瞬間、安心感を持ったのか考えて見た。


第一に、揺れが大きく長い時間続いたものの、道路に地割れが入らなかった事と、ビルの外壁が剥がれ落ちなかった事だろう・・・。
 小学校6年生の時、十勝沖地震が起こった。1968年(昭和43年)5月16日午前9時48分。この時は、たまたま小学校で地震の避難訓練があって、全校生徒が校庭に避難していたが、その直後に地震が発生。目の前の校庭に地割れが走り、校舎の壁が落下するという経験をしている。その時と咄嗟に比較した事。


第二に、ちょうど東北自動車道が目に入ったが、車や大型トラックは平気で走っていたので、東北自動車道は被害が無いと知った事。


第三に、地震直後に一斉に停電したが、唯一、点灯している道路標識があったのだ。
それは、誰もが知っているブリンカーフラッシュが点滅していた事。

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太陽電池パネルで充電し、24時間自動で点滅する自発光障害物表示灯「ブリンカーフラッシュ」。

国道46号線には仙岩峠までの間、このブリンカーフラッシュが各中央分離帯毎に幾つも立ってる。それが目印になった。

第四に、停電2日目の12日深夜、町の中にひときわ明るい建物を見つけた事。この建物は東北電力の変電所で、葛根田地熱発電所が運転を再開し、電気が送られて来ているという証拠で、そう遅くない時期に電力は復旧すると判断した事だった。
通電を再開する為には、各地の送電線や送電設備、変電設備の点検が必要だった訳で、この周辺は早期に電気が点くと思った訳だ。


それに乾電池式の小型LCDテレビは結構長く映っていたし、豆炭コタツなので・・・。

しかしテレビの中継所の自家発電が24時間しか保たないとは、何ともお粗末。AMラジオは何個もあったし、AMラジオの電波は夜になると感度が増すというのは常識だったので、情報が得られないという事はなかった。


第五に、アメリカとロシアの緊急支援への名乗り。深夜のAMラジオに飛び込んできた、Voice of Russiaの日本語放送でのロシア緊急事態省の発表である。ロシアの天然ガスのパイプラインはウラジオストクまで来ている。ロシアが援助を申し出た事で、もし万が一、石油の備蓄が逼迫しても、ウラジオストクから発電用燃料が確保される。
しかもロシア軍には、原子力発電所の事故に使える、自動送水パイプ敷設車両という特殊な軍用車両がある。
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広大なロシアの森林火災に対応する、この特殊バイブ敷設車を使えば、福島原発の火災まで長距離でパイプ送水が可能となる。
しかし日本は、消防用ホースを人力で繋げるという危険作業を東京消防庁に要請。一層の不安を掻き立てた。しかも海から汲み上げるポンプ車が故障したり、瓦礫が邪魔で、ホースの敷設まで時間を要してしまった。
せっかくのロシア非常事態省の申し出は空振りに終わった。


アメリカの対応も早かった。
真っ先に、偶然にも米韓合同軍事練習に参加していた米第七艦隊の原子力空母「ロナルド・レーガン」が、13日には宮城県沖に到着。ヘリでいち早く沿岸で孤立している場所に支援物資を届けてくれた。

大災害発生の3月11日、米国防総省は原子力空母ロナルド・レーガンの他に、▽ミサイル巡洋艦チャンセラーズ▽ミサイル駆逐艦プレブル▽揚陸指揮官ブルーリッジ▽強襲揚陸艦エセックス▽揚陸艦ハーパーズ・フェリー▽同トーテュガを派遣すると発表した。

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米軍の大型輸送機C-17グローブマスター(AF-00-0174:アラスカ・エルメンドルフ空軍基地所属)、が横田基地から再開された仙台空港に到着。


もし米軍の基地が三沢に無かったら、事態は更に深刻で悲劇化していた事だろう。



来年、もし良い年になったら、三沢基地の航空祭に再び行って見たいと思っている。

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自然災害に遭遇した時、過去の記憶が随分と役に立ったのは間違い無い。


十勝沖地震のあとは、1970年(昭和45年)9月18日深夜に秋田駒ヶ岳が噴火・・・、これはすぐ目の前だったけど、我が家では呑気に稲刈りをしていた記憶がある。


そしてその翌年の暑い夏の昼過ぎ・・・1971年(昭和46年)7月30日午後2時2分。ドゥーンという轟音が空に轟き、昼寝をしていた私は慌てて二階の窓から空を見上げた。真っ青な空から幾つもの煙と共に何かが落ちて来た。

全日空機自衛隊雫石上空空中衝突事故。
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そのあと北海道で一時期を過ごしたが、この時には1977年(昭和52年)8月7日午前9時12分の有珠山噴火に遭遇。ちょうど実習をしていた酪農家が、火山灰被害の周辺市町村に牛の牧草を運ぶと言うので、大混乱に・・・。


更に1998年(平成15年)9月3日に、まさかまさかの岩手山が噴火。
ここは震度6弱を記録し、負傷者9名と、送電線の切断、道路の隆起、滝の上温泉道路が崩壊、国の天然記念物の玄武洞が崩落、葛根田地熱発電所はしばらくの間、道路が復旧しないまま発電を停止した。
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玄武洞は1686年の岩手山大噴火で焼走り溶岩流と共に出来たらしいのですが、詳しくはわかりません。しかし312年間で出来た国の天然記念物は、無残に崩落し、改めて自然の猛威を痛感したのです。
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この時の揺れは、今回の東北関東大震災の揺れを凌駕する揺れで、地下の底から突き上げる激烈な衝撃だった。しかし岩手山直下にある滝の上温泉山荘は無傷で、温泉客も無事。食料は自衛隊のヘリで山奥まで届けられた。

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お墓参りの帰り道・・・。
いつものように白鳥が近くの田んぼで、落ち穂を啄んで(ついばんで)いた。

一歩一歩、されど先人の言葉に謙虚に耳を傾けつつ、ただひたすら謙虚にこれからも暮らす。
日本に住んでいる以上・・・いや地球に住んでいる限り、人類の自然との戦いは続く。
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2011年3月16日 (水)

節電推進・義援金関連情報










Emergency Reliefs
JAPANESE RED CROSS SOCIETY

JAPANESE RED CROSS SOCIETY




JAPANESE RED CROSS SOCIETY




Information site concerning power saving and power failure.
And
Site link concerning victim information, In addition, Official site link of each one rule body and transportation.






The Tohoku region Pacific Ocean Coast Earthquake and TUNAMI in Japan.
About this case, Related information site of monetary donation.








ATTENTION!!

Please not trust a part of neither site, and not twitter.
Please confirm it on a public site.








節電・停電に関する情報の他、安否情報に関するサイトや各自治体・交通機関の公式サイト






東北地方太平洋沖地震に際して、義援金の関連情報サイト








一部のサイトやtwitterなどではなく、公のサイトでのご確認をおすすめ致します。



2011年3月15日 (火)

東北地方太平洋沖地震、経過

2011年3月11日14時46分に発生した東北地方太平洋沖地震・・・。
私自身の遭遇時の行動とその前後の行動を記録として記す。


この日、精神科の受診日で盛岡の病院へ行き、午後2時頃診察を終え、帰路についた。
途中、空の異様な雰囲気を感じ、途中で車を止め、大館町で斜張橋越しに太陽を撮影。
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どんよりとした分厚い雲にも関わらず、眩しい日射し。
大地震発生約3分前・・・・


それからイオン方向に車を走らせた途端、巨大地震が発生!
前潟のローソンの前の国道で次々にに車が止まるのを見て、慌ててハザードを点け、停止。


揺れは激しく、物凄く長い時間。
(のちに5分間と判明)

隣の車線に停まっていたバスが動き出したのを見て、私も車を動かす。


この時、既に目の前の・・・イオン前の信号機は消えていた。
とりあえず様子を見るため、イオンの駐車場に侵入し、停車。


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イオンの中から、大勢の買い物客が飛び出して来る。
店内は真っ暗。


激しい揺れが何度も何度も波状攻撃のように襲いかかる。
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悲鳴を上げて、駐車場に座り込む人もいた。


駐車場からは車が一斉に国道に走り出した。
イオン前の南バイパス交差点は渋滞は無いものの、なかなか進みそうもなかったが、
もう一つの西側の信号機には、イオンの店員が10名ほど出て、交通整理を始めた為、駐車場からスムーズに国道に出られた。


そのまま自宅へと急いだ。




自宅は想像より被害も無く、数点のCDが棚から落ちた程度。
被害は全く無かった。

停電の為、我が家では次の事をした。


仏壇から太いロウソクとロウソク立てを用意し、コタツの上へ。
小型ラジオを用意(乾電池タイプ)。
その他には、次の物を準備。
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乾電池で動くLCDテレビ。
乾電池で点る非常用LED照明。
予備の小型ラジオ。
懐中電灯3本。

暖房はコタツ。我が家は豆炭コタツなので、ガスで豆炭に火を入れると、約24時間暖かさが持続する。
他に、丸型の石油ストーブを2台準備。寒さに備えた。


灯油は灯油タンクに十分量がある他、トラクター用の軽油のドラム缶もあるので、切れたら板きれでも燃やしてご飯を炊く事に。


食料は、米は豊富にあるので、大鍋にガスでご飯を炊いた。
水は断水しなかった為、心配なかったが、もし断水しても大丈夫なように常に、2リットルのペット水を6本買い置きしていたので当分は問題なし。


他に補水として、大塚製薬のOS-1を箱で購入しているので、これを飲んだ。


CASIOのLCD小型テレビで引き続きテレビを見ていたが、
当日深夜、IAT、IBC、MITが視聴不可に。これは当地の中継局の非常電源が切れた為と思われる。
その後、早朝にはTVIも視聴不可になり、停電からちょうど24時間後の12日午後にNHKの2局も視聴不可に。
これで全ての非常電源が終わった。




その後の情報はラジオのみ。
12日夜、モスクワからの日本語ラジオ放送が入るようになり、ロシアが援助を申し出た事を知る。
12日深夜から、山越えの遙か先、紫波の新山送信所のVHF電波を受信。
視聴出来たのは、NHK教育のみ。


MITも僅かに受信出来るものの、UHF局は全て判別は不能。

NHK総合とその他の民放は全く入らず。


電気が落ちて停電になってもテレビを見る事が出来るのに、肝心の送信所や中継局の電源切れでは、せっかく用意していた小型テレビは無駄になってしまった。


携帯はバッテリー切れで使用出来ず。



3日間、豆炭コタツで寝る。

用意した乾電池で点る非常用LED照明は、単3が4本だが、3日間夜中点けていても全く暗くなる事もなく、煌煌と点り続けた。




停電復旧後は数時間DoCoMoが圏外を表示したままメールも使用出来ず。
auは停電復旧後直ぐにメール送信が可能だった。


安否を気づかう北海道に住む妹に早速auからメールを送り、無事を報告。

これらは災害の為に準備している訳ではなく、不便な所に住んでいるので、それが当たり前になっていたが、結果的に精神的に追い詰められる事を最小限に出来た。


実は今日15日は診察日だったが、盛岡に出るのを諦めた。
医師も看護師も、大変な思いをした事を想像すると、行けなかった。
18日はペースメーカーの検査と診察なので、病院に行かなくてはならないが、それはその日に考えよう。


とにかく今は節電。

今夜も早く寝ます。


2011年3月10日 (木)

コタツ

新しく購入したマットレスにも、せんべい布団にも、その他もろもろでも、なかなか熟睡出来ないので、ここ二日間、諦めてコタツで寝てみたKotatumodel


すると意外にも、昨日はぐっすり朝まで約5時間、熟睡
今朝も途中一度目覚めたものの、やっぱり5時間、熟睡と、案外楽に眠ることが出来た

胸のあたりから足まで、ポカポカと温だまりながら寝るのは実にきもちがいい

足の上にふとんがあると、無意識のうちに跳ね退けてしまう癖があるので、まだまだ寒い今は、厚いふとん・・・
コタツ寝で、久しぶりに安眠と熟睡出来て、気分は多少晴れやかSun2

Kotatumodel_2しばらくコタツ寝を続けよう。そのうち腰が痛くなる事だろうが、そうなったら又ベッドで寝るということで・・・( ̄ー ̄)ニヤリ


今週は明日からまたまた病院連続通院が始まるが、今回は背中も凝り凝りしてないので、楽かもしれない


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2011年3月 3日 (木)

「告白」は衝撃よりも痛快娯楽作品

「この中に犯人がいます」と始まる、松たか子主演の映画「告白」をレンタルで見た。
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映画の本筋は、娘を殺された女性が、法の裁きを間逃れた殺人者に対して、復讐するという端的な話で、取り立てて大騒ぎするものでもない
単に相手が中学1年生だ。と言うだけの事で、法が許してしまうなら、親である女性が娘の無念を晴らすという、実に分かりやすいストーリーだ

冒頭の25分で『女教師の告白』があり、あとは実行犯の中学生の家庭事情とか、精神病質とか、分裂症的無関心とか、親のを気を引くためとか・・・色々、ごたごた描かれているが、この部分は少々詰まらない

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被害に遭った娘にとって、そんな事はどうでもいい事だし、何の落ち度もないのに、鬱憤晴らしのために殺されなければならなかった事を思えば、犯罪者側の心理などどうでも良い。


この映画は、結局、観ている者が、
復讐する松たか子に同情するのか647563
それとも殺した中学生側の立場で観るのか647563
或いは見て見ぬふりをしていた同級生の立場なのか647563

それによってこの映画を観ている者がどんな人間なのかを分類するような映画になっている。

人を殺すという事がどれほど罪悪に満ち、卑劣で、惨いのか・・・
一度でも誰かを殺そうと思った人は、松たか子の女性教師に同情はすれども、納得しないだろう。




新潮文庫

1997年5月に起きた「神戸連続児童殺傷事件」。14歳の少年に我が子を奪われた父が綴る鎮魂の手記。


従って私自身は、この映画の途中の、殺した犯人のダラダラしたシーンは早送りさせてもらった。
どんないかなる理由があろうとも、人を殺してはダメなのだ。
絶対に許されない。


これほど時代劇っぽい痛快な映画は久しぶりであった。
実に小気味よい


しかしこれが第34回日本アカデミー賞の最優秀作品賞、最優秀監督賞、最優秀脚本賞、最優秀編集賞とはチャンチャラ可笑しいわ。
このような在り来たりのストーリーで、日本アカデミー賞と言うのもお粗末な話で、ストーリーが分かれば何度も見たいとは思わないし、編集も雑。中学校の教室なのに、張り紙一つ無いのは絶対変。今時の教室とはとても思えない、非現実的セット。しかも舞台劇のように、画面の上が暗く、教室の明るさではない。更に、またまた外の景色が全く見えないし、作新学院の校舎らしいが、どう見ても三文舞台セットのような無機質で安っぽいセットは、興を損ねる。
普通の明るさで描くと、開放感があってリアル感や切迫感が消失するとでも考えての照明だろうが、だからこそ非日常的な世界へ観客を誘い込もうという根端が見え見え。

それでも初志貫徹。

見事、制裁を成し遂げ、女性教師は荒野へと旅立つのであった———
松たか子演じる教師が、「あずみ」に見えてしまったKao_star12

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そんなわけで、この映画を見ての感想は、「あずみ」のパート3が見たいので、是非続編を作って欲しいと思ったのでした。
White_flowers

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