「ご先祖様に、報告」
今日、春のお彼岸と言う事で、大地震後、初めて町内に出て、ご先祖様が居るお寺にお墓参りに行って来た。震度5強に襲われた町内だが、墓石は何ともなかった。
お寺の隣にある小さな商店はちゃんと営業していて、花も置いてあったので、2束買って、お墓に供えた。いつもはたくさんのお墓参りの人が来るのだが、圧倒的に少ないものの、何人かと挨拶を交わしながら、ご先祖様に今回の事を報告。
お墓には昔から、願い事を言ってはならないと言う教えがあって、私はご先祖様に報告する事と、先人が残してくれた生きるための知恵と工夫に、改めて感謝した。
やはり言い伝えは間違っていなかったのだ。
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振り返れば、私は何故、あの瞬間、安心感を持ったのか考えて見た。
第一に、揺れが大きく長い時間続いたものの、道路に地割れが入らなかった事と、ビルの外壁が剥がれ落ちなかった事だろう・・・。
小学校6年生の時、十勝沖地震が起こった。1968年(昭和43年)5月16日午前9時48分。この時は、たまたま小学校で地震の避難訓練があって、全校生徒が校庭に避難していたが、その直後に地震が発生。目の前の校庭に地割れが走り、校舎の壁が落下するという経験をしている。その時と咄嗟に比較した事。
第二に、ちょうど東北自動車道が目に入ったが、車や大型トラックは平気で走っていたので、東北自動車道は被害が無いと知った事。
第三に、地震直後に一斉に停電したが、唯一、点灯している道路標識があったのだ。
それは、誰もが知っているブリンカーフラッシュが点滅していた事。
太陽電池パネルで充電し、24時間自動で点滅する自発光障害物表示灯「ブリンカーフラッシュ」。
国道46号線には仙岩峠までの間、このブリンカーフラッシュが各中央分離帯毎に幾つも立ってる。それが目印になった。
第四に、停電2日目の12日深夜、町の中にひときわ明るい建物を見つけた事。この建物は東北電力の変電所で、葛根田地熱発電所が運転を再開し、電気が送られて来ているという証拠で、そう遅くない時期に電力は復旧すると判断した事だった。
通電を再開する為には、各地の送電線や送電設備、変電設備の点検が必要だった訳で、この周辺は早期に電気が点くと思った訳だ。
それに乾電池式の小型LCDテレビは結構長く映っていたし、豆炭コタツなので・・・。
しかしテレビの中継所の自家発電が24時間しか保たないとは、何ともお粗末。AMラジオは何個もあったし、AMラジオの電波は夜になると感度が増すというのは常識だったので、情報が得られないという事はなかった。
第五に、アメリカとロシアの緊急支援への名乗り。深夜のAMラジオに飛び込んできた、Voice of Russiaの日本語放送でのロシア緊急事態省の発表である。ロシアの天然ガスのパイプラインはウラジオストクまで来ている。ロシアが援助を申し出た事で、もし万が一、石油の備蓄が逼迫しても、ウラジオストクから発電用燃料が確保される。
しかもロシア軍には、原子力発電所の事故に使える、自動送水パイプ敷設車両という特殊な軍用車両がある。
広大なロシアの森林火災に対応する、この特殊バイブ敷設車を使えば、福島原発の火災まで長距離でパイプ送水が可能となる。
しかし日本は、消防用ホースを人力で繋げるという危険作業を東京消防庁に要請。一層の不安を掻き立てた。しかも海から汲み上げるポンプ車が故障したり、瓦礫が邪魔で、ホースの敷設まで時間を要してしまった。
せっかくのロシア非常事態省の申し出は空振りに終わった。
アメリカの対応も早かった。
真っ先に、偶然にも米韓合同軍事練習に参加していた米第七艦隊の原子力空母「ロナルド・レーガン」が、13日には宮城県沖に到着。ヘリでいち早く沿岸で孤立している場所に支援物資を届けてくれた。
大災害発生の3月11日、米国防総省は原子力空母ロナルド・レーガンの他に、▽ミサイル巡洋艦チャンセラーズ▽ミサイル駆逐艦プレブル▽揚陸指揮官ブルーリッジ▽強襲揚陸艦エセックス▽揚陸艦ハーパーズ・フェリー▽同トーテュガを派遣すると発表した。
米軍の大型輸送機C-17グローブマスター(AF-00-0174:アラスカ・エルメンドルフ空軍基地所属)、が横田基地から再開された仙台空港に到着。
もし米軍の基地が三沢に無かったら、事態は更に深刻で悲劇化していた事だろう。
来年、もし良い年になったら、三沢基地の航空祭に再び行って見たいと思っている。
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自然災害に遭遇した時、過去の記憶が随分と役に立ったのは間違い無い。
十勝沖地震のあとは、1970年(昭和45年)9月18日深夜に秋田駒ヶ岳が噴火・・・、これはすぐ目の前だったけど、我が家では呑気に稲刈りをしていた記憶がある。
そしてその翌年の暑い夏の昼過ぎ・・・1971年(昭和46年)7月30日午後2時2分。ドゥーンという轟音が空に轟き、昼寝をしていた私は慌てて二階の窓から空を見上げた。真っ青な空から幾つもの煙と共に何かが落ちて来た。
全日空機自衛隊雫石上空空中衝突事故。
そのあと北海道で一時期を過ごしたが、この時には1977年(昭和52年)8月7日午前9時12分の有珠山噴火に遭遇。ちょうど実習をしていた酪農家が、火山灰被害の周辺市町村に牛の牧草を運ぶと言うので、大混乱に・・・。
更に1998年(平成15年)9月3日に、まさかまさかの岩手山が噴火。
ここは震度6弱を記録し、負傷者9名と、送電線の切断、道路の隆起、滝の上温泉道路が崩壊、国の天然記念物の玄武洞が崩落、葛根田地熱発電所はしばらくの間、道路が復旧しないまま発電を停止した。
玄武洞は1686年の岩手山大噴火で焼走り溶岩流と共に出来たらしいのですが、詳しくはわかりません。しかし312年間で出来た国の天然記念物は、無残に崩落し、改めて自然の猛威を痛感したのです。
この時の揺れは、今回の東北関東大震災の揺れを凌駕する揺れで、地下の底から突き上げる激烈な衝撃だった。しかし岩手山直下にある滝の上温泉山荘は無傷で、温泉客も無事。食料は自衛隊のヘリで山奥まで届けられた。
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お墓参りの帰り道・・・。
いつものように白鳥が近くの田んぼで、落ち穂を啄んで(ついばんで)いた。
一歩一歩、されど先人の言葉に謙虚に耳を傾けつつ、ただひたすら謙虚にこれからも暮らす。
日本に住んでいる以上・・・いや地球に住んでいる限り、人類の自然との戦いは続く。
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