背中を押して
2週間引きこもった末の昨日、精神科と皮膚科の診察に行ってきた。
重い気持ちをポケットに入れて、助けを求めに診察室の扉を開け、この2週間を振り返り、先生に尋ねた。
家から一歩も出れなかった。
世間はスカイツリーで大盛り上がり・・・。オリンピック予選の試合で更に盛り上がり、芸人の生活保護の話題で大忙し・・・。
なんと賑やかなことか
人々は、他人の話題で盛り上がる余裕があると言うのに、私は自分の身体に右往左往して、コントロールできないから、世間の大はしゃぎがより一層、心を締め付ける
基本的に、賑やかな事が苦手。1時間くらい話すと、話疲れて、頭が痛くなる。そしてぐったりして眠くなる。
カラータイマーの切れるのが早いのだ。
これに気づいたのは、高校生になってから・・・。帰宅時間になる頃には、ぐったりして、駅で電車を待っている間も、通路にしゃがみ込んでいた。
いつも先生には、家の周りでもいいので、少し歩いたら・・・と言われるが、それが出来ない。
診察日のように日時を決められると動けるが、自分で決めた時間では、動くことが苦手で、誰かに背中を押されて初めて動き出す。
子供の頃から、親から勉強しろ、とは一度も言われた事がなく、高校進学も、大学進学も、親が全て決めて、背中を押してくれてたので、私はその通りに生きて来た。
農家の長男として生まれた以上、農家の跡取りとなるのが定めで、それ以外の選択肢など考えた事もなかった。
だから・・・
大学を卒業したあと、就職しろと言われた時、私は唖然となった。
就職ってなんだ
農家以外で働くというのがどういう事か、それまで全く知らなかった・・・。
武士の子は武士、農民の子は農民、
それ以外の事など考えた事もなかった。
私はこの話しを何度、先生に話した事だろう。
結果的に酪農家の跡取りとして失敗し、入退院を繰り返し、免疫力が落ちて、この有様だ。
だが、
父と母を恨んではいない。
私が生まれた時代、そして生まれた環境は、そういう場所だったし、何より自分はその生きた時代が今も好きなのだ。
ただ、今の時代を生きるには、あまりにも術を知らなかった。
朝起きたら、「おはようございます」。学校に行く時は、「行ってきます」。帰ったら「ただいま」。ご飯の時は、「いただきます」「ごちそうさまでした」。寝る時は、「お休みなさい」。
人にぶつかったら「すいません」「ごめんなさい」
これらの当たり前の言葉が、私は言えなかった。
小さい頃、教えてもらわなかったのだ。
朝起きると、もう両親は外で仕事していたし、帰って来ても家にはいない。朝食と夕食はいつも一人。小学校は給食だったが、挨拶はこの時だけのものだと思い込んでいた。
中学では、自分で弁当を作って、新聞紙にくるんで持って行った。
挨拶は本当に儀礼で、自然に出て来ない。だから咄嗟の時、私はうろたえる。
先生はいつもその話を真剣に聞いてくれる、唯一の人。
昨日は、
「出られない時は無理して出ない方がいい。パソコンをしてるなら、大丈夫ですよ」
と言って、薬の変更はなかった。
「一人になったら、動けるようになるから」と、先生は言う。
高齢の両親が亡くなったあとの事を、私はいつもいつも先生に聞いて来た。
一人でこの大きな家で暮らして行けるのか?
その度に先生は、「誰もがそういう時を向かえます。大丈夫、その時が来たら、出来ますから」と。
よく「人は何のために生きているのか?」と問う人がいる。
私の場合、その答えはハッキリしている・・・
親より先に死んではならないからだ、と。
親の死を看取るのが子供のつとめで、それ以外、何もないと。
先祖がそうして来たように、ここではそれが当たり前だと思って生きて来た。
自ら命を絶つという事は、絶対にしてはならないと・・・。
私はいつも先生に「今は頑張らなくても、これから頑張って生きましょう」と言われる。
私は欝ではないので、「頑張ろう」と声を掛けられると勇気が沸いてくる。
なんだか本当に出来そうな気になるのだ。
でも他の人は誰も「頑張って」とは言わない。
午後から2ヶ月ぶりの皮膚科。
3時間待ちで、ほとんどうたた寝状態・・・ 精神科の先生に励まされて、なんだか元気だ。
紫外線をたっぷり浴びて、軟膏をもらって、そそくさと帰宅。
帰り着いたのは午後6時半。
2週間引きこもっていた割に、随分動けたと思った、長い一日だった・・・。
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