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2012年9月の記事

2012年9月28日 (金)

あきちゃ~ん襲来

涼しい季節に、突然なりました
月曜日の朝、いきなり最低気温が9度に下がって、案の定、風邪を引いて、
それからボーーッと眠い日々を送っております

一応、風邪薬は飲んでいますが、ほとんど効果もなく、鼻水タラタラ・・・グヂュグヂュ・・・
慢性副鼻腔炎が悪化したみたいで、水曜日、精神科の診察の時に、漢方薬を処方してもらいました。
あとは、人工的に体温を上げ、汗をかいて風邪菌を追っ払うだけです

そして今朝は、県内2位の7.9°度
本州一寒い藪川が7.6°度って、岩手県内で10度以下はこの二つだけじゃぁーーー
最低気温を競ってどうする・・・


ううぅぅぅ、寒気と、眠さで、世の中の動きにも反応しない様相を呈してますので、
あきは競歩のごとに早さで迫っているおり、体調管理にご注意下さいませ





2012年9月23日 (日)

家族 ③

点滴が終わったのは午後10時。
それからこの日の為に用意してくれた旅館へと向かったが、これがまた遠い・・・。
元々、夕食は準備しなくてもいいと言っていたので、途中コンビニに寄って、チャーハンと飲み物を購入。母は妹の嫁ぎ先にお邪魔して、夕食をごちそうになったと言うし、父は全く食欲は無い、と言うので、さっさと旅館(ホテル)へ直行!

この旅館・・・いやいや立派なホテルは、帯広と札内川を隔てた隣の幕別町の高台にあって、眺望がいいらしいが、夜もドップリ更け、午後11時
展望露天風呂があると言うが、部屋に着くなり父はぐったりとふとんへ

私も遅い夕食を済ませ、毎日の薬を飲んで、とっとと就寝・・・
三人一緒の部屋に寝るのは、東日本大震災で停電が続いた時、豆炭コタツで3日間眠って以来。



そして翌朝・・・。

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部屋から見える景色
敷地眼下には「幕別町ふるさと館」なる建物・・・そして、何故か矢印の所に、ケンケンパらしき円が描かれている


北海道はこの日も激暑・快晴
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朝食を済ませ、いよいよ結婚式へ。
結婚式は帯広神社で。その後帯広市内のホテルで披露宴
父は案外元気に写真撮影(フイルムカメラ)に飛び回り、母と私はフルコースの食事を味わいながら、「なんだか暑い」とぼやき、ウーロン茶ばかり飲んでおりました


その夜はお腹も満腹で、ようやく旅行に来た気分を味わい、ホテル内をウロウロ・・・。
花嫁の母になった妹が、和服を着替え部屋に着いて、しばし談笑。
もちろん父の飛行機酔いに話題は集中
結局、我が家にはワン子がひとりぼっちなので、飛行機をキャンセルしてフェリーや列車で戻ると時間が掛かるという事で、予定通り飛行機に乗る事に・・・。

父は翌朝、薬局で「車酔い止め」を買って、なんとか我慢してもらうことにして、
家族4人で初めて、旅館の一つ部屋に宿泊するという記念すべき夜は更けたのであります
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姪ちゃん、お幸せにネ


私は妹と一緒に遊んだり、過ごした記憶がほとんど無い。
私は幼稚園の頃まで病弱で、すぐに風邪を引いて熱を出す子供だったらしい。
当時、小さな病院が一つしかなく、母は私を背中にしょって歩いて病院まで行ったと言う。

小学校入学前、肺炎で危篤になって入院し、当時高価だったペニシリンが効いて助かったものの、胸骨の中心が大きく陥没し、拳骨のグーが入るくらいだった。

だから妹が生まれた事も覚えていないし、小学生の頃の記憶も全く無い。
私が中学になった頃、妹とは口喧嘩を良くしていたのを覚えている。
その都度、私は負けて、泣きべそをかき、牛小屋に閉じこもっていた。
とにかく頭が良く、口喧嘩で勝ったことは一度もない。


高校入学と同時に私は寮生活が始まり、その頃の妹との記憶もない。
高校卒業後は北海道の短大に進学し、再び寮生活となり、妹とは殆ど顔を合わせる機会がなくなった。
大学卒業後、県の仕事に就いたため、官舎生活が始まり、家に戻る機会も少なく、そのうちどういう訳か妹も北海道の短大に進学。・・・すれ違いが続く・・。

しかも妹は卒業と同時に、北海道の人と結婚
両親は猛反対したが、妹の巧みな話術と熱心さに根負けして、晴れてお嫁さんになった。
そしてこの時の結婚式には、両親は出席したが、私は出席していないので、一つ部屋で枕を並べるという機会は無かった。


妹とはすれ違いばかりで、中学・高校時代の制服姿を見たことがないし、もちろん登下校の様子も知らない。妹は高校は盛岡市内だったが、部活は私と同じ演劇部だったとかなり時を経てから知った。
だから幼い頃に二人で映った写真は一枚も無い。
酪農家だったので、家族でどこかへ旅行に出かけた記憶はないし、妹と一緒に出かけたと言う記憶も中学の頃の事が少し残っているだけ。


だから余計、その時の記憶が今も鮮明に残っている───。

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2012年9月21日 (金)

家族 ②

暑さの厳しさが続いていた仙台空港・・・だだ広っろい割に混雑は無かったが、全面ガラス張りという事もあり、ただひたすら汗がでる

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AIR DOのボーイング737-500型の機内から・・・

その後は全て順調で、千歳に到着後、待っていてくれた妹の運転する車で、一路、道東自動車道に乗り、帯広を目指したのだが・・・・・
私は既に疲れて、空港を出発後すぐ寝てしまいましたが・・・。


途中で「グエェェーー!」という声で目を覚ますと、占冠PAで父が盛んにゲロしていた・・・
「おいおい、どうしただあ?」
どうやら千歳を出てすぐに具合が悪くなり、高速道に入った途端、気持ちが悪いと言い、ビニールにゲロしてたようだ。
車酔い・・・まさか?
と聞いて見ると、どうやら飛行機酔いしたみたいで
、車に乗って我慢しきれず、「ゲエェゲエェ」を始めたとの事。

周囲は日が暮れて、ここで救急車を呼ぼうか?と妹、母、私で相談したが、急遽予定を変更して、父には吐き気を続けてもらいながら、妹の知り合いの救急病院へ向かう事にした。


いくら何でも「酔い止め、吐き気止め」の薬は持っていないので、とりあえずポカリスエットを少し飲ませ、持ち歩いている解熱・鎮痛剤を飲ませ、自販機で冷えたペットボトルを買って、頭の後ろを冷やす事に。

トマムリゾートの高層ホテルの明かりを左手に見ながら、一路、帯広へ。


それから公立の救急病院へ直行!
父はフラフラで歩けないので、車椅子で病院内へ。
あいにく父は保険証を持っていないので、とりあえず100%として1万円を支払い、診察を。
当番医は外科の先生で、500mlの点滴に吐き気止めを混ぜて、ベッドで点滴開始・・・。

食欲は全くないと言う父は、点滴を始めたら、寝息を立てて眠ってしまいました。
よほど辛かったのでしょう・・・


帯広も半端無く暑く、病院内は冷房もなく、廊下はムシムシ。しかし診察室と処置室は冷房が入っていて、ようやく私もここで一息。
こうして長い長い一日は更けようとしていた・・・。
更に波乱の旅が続く・・・・・

次の後編へつづく。




2012年9月19日 (水)

家族 ①

生まれてから今日まで、家族が揃って宿泊旅行などした事がなかった───。
おそらく普通なら一泊でどこかへ出かける事は、とても簡単な事なのかもしれないが、我が家ではそういうチャンスが巡って来なかった。


それが姪の結婚式・・・というセレモニーに出向くことで、図らずも初めて家族が一つ宿の下、同じ部屋で枕を並べて眠るという快挙が達成された。


そーんな訳で、9月14日から16日、炎天下の真夏が続く中、我が家では北海道まで行って帰って来たのだ。


これが最初で最後の家族旅行になるかもしれないが、
妹の姪の結婚式に出席するという旅は、新幹線でスタート
こまちに乗って一路、仙台へ。そこから電車を乗り継ぎ仙台空港駅へ・・・。
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ペースメーカーの私は、人生初のボディタッチ検査を受けた。
検査の人が女性だったので、おっとっと・・・

AIR DOのボーイング737の柄物機体でした
搭乗口は一番端っこ・・・暑がりの私と、足の悪い母には長い通路でした
父はこの時、まだ平気だったのですが・・・・・


私は過去に三沢空港からYS-11に乗った経験が何度かあったが、父と母は飛行機初体験
今回は時間的な都合で、いわて花巻空港ではなく、往きは仙台空港からとなったが、さすがに花巻と違って空港が広~~い

中編へつづく




2012年9月11日 (火)

薬切れる

大気が冷えて来て、露が出来始める頃・・・「白露」を過ぎても、依然として暑い日差しが
先週、朝の気温が急に低くなり、多少夏風邪っぽくて、案の定、日々眠くて眠くて、ダレダレしてます。


そしたら乾癬の飲み薬が切れてしまい、足が痒い痒い・・・
赤く腫れてしまい、皮が剥げまくってしまい、昨日、皮膚科に行って来た。

しかし病院内の冷房は、微弱になっていて、ムッとする暑さ・・・貼り紙では9月30日まで節電期間との事で、この効いているか効いていないか不明のぬる~い冷風が、漂っていた
でも私以外の人は、全く動じない表情で、前回までたくさん開いていた扇子も昨日は見かけなかった・・・。

私だけ、汗だく タオル片手に汗を拭きまくっていました

ほんとに汗っかきなので、水分・塩分補給のペースを早めないと、また過去の悪夢の再来を予見する危機感が。
もう外を歩く人も気温30度なのに、スーツ姿の人が目立ち始めて、
まさか!と目を疑ってしまった!

でも只今、車は車検とエアコン修理中で、代車に乗ってるので、エアコンが効いて涼しいぃ


この雨の降らない、暑さはいつまで続くのか?

気象庁の3ヶ月予報では→→9月 北・東日本、西日本日本海側では、天気は数日の周期で変わるでしょう。西日本太平洋側と沖縄・奄美では、平年と同様に晴れの日が多い見込みです。気温は、北・東・西日本で平年並または高い確率ともに40%です。

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と曖昧な予報でいつ頃から秋らしくなるのか、さっぱり分からない。


そこで恒例の過去の歴史を紐解いて見た───。

ここでは酷暑ではなく、農作物に甚大な被害を及ぼした『干害』の中でも、戦後発生した年を見て見ると、
1947年:中部より西日本で農作物の収穫皆無、被害規模2万ha以上。
 この年は7月から8月が酷暑で、秋の訪れを告げる台風は9月14日の「カスリーン台風」で大被害が出ている。
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1951年:全国で干ばつ被害、水稲・陸稲合わせて23万ha以上の被害。
 この年は9月末まで暑く、10月13日に「ルース台風」で甚大な被害が発生。
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1978年:全国で干ばつ被害、水稲1500ha以上の被害。
 この年は秋に大型の台風は上陸していないが、大雪・豪雪の年となる。


1994年:全国で干害・酷暑被害、死者・負傷700人、水稲1200ha以上の被害。
 この年も秋に大型の台風は上陸していないが、大雪・豪雪の年となる。


2004年:この年は自然災害が多発。7月新潟・福島豪雨、福井豪雨、7~8月酷暑、台風16~23号が相次ぎ上陸。特に9月から10月は台風18号と台風23号で死者146人。11月には大雨強風被害、12月~1月大雪・強風被害連続。
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今年はこの傾向で行くと、台風の上陸は9月末から10月以降にかけて来るかも…
干ばつの年は大雪になるという言い伝えがあるので、今年の冬はどうなることか

2012年9月 3日 (月)

証言記録 「福島第一原発」 時系列ドキュメント

この惨劇は何故起きたのか?
その時、「福島第一原発」では何が起こり、作業員や指揮官はどう判断し行動したのか?
危機に直面した人々の証言を基に、窮地に陥った状況を克明にする・・・。
ナショナル ジオグラフィック(NATIONAL GEOGRAPHIC)  衝撃の瞬間5 「福島第一原発」より
日本語字幕全文書き起こし。

これは実話であり、

公式の記録と目撃者、及び専門家の証言を基に

構成した時系列の記録です。

1945年(昭和20年)8月9日、日本に投下された原子爆弾によって、原子力の威力が世界に示されました。 今は平和利用されている原子力ですが、常に危険をはらんでいます。

1979年ーーー。
アメリカ・スリーマイル島原発事故では、大勢の人が避難。

1986年ーーー。
チェルノブイリ事故では、欧州が混乱に陥りました。

もう事故は、許されないはずでした。


しかし2011年ーーー。
大地震が、福島第一原発を襲います。
続いて大津波が到来。

原子力の脅威が再び日本を襲ったのです。

「全ての事故には、必ず原因があります。大惨事の陰に隠された、驚くべき真実に迫ります」

     第一章
     『マグニチュード9.0』


2011年3月11日。
日本。東北地方ーーー。
午後二時四十七分。

 小学校教師の堀内恵里子さん(仮名)は、教室にいました。
 突然、教室が揺れ出します。
「すごく揺れて、長い時間だったので、部屋の中のものが飛び散りました」
と、堀内さんは冷静に思い出しながら語った。
「机の下へ!」
 冷静な判断が急がれます。
 堀内さんはさらに続ける。
「子供たちと一緒に、机の下へ潜りました」
 揺れは長く続きました。

 東京でも強い揺れを感じました。
 堀内さんの行動は的確でした。
「練習してましたので・・・。いつも避難訓練で練習してましたので、子供はちゃんと先生の言うことを聞いて、練習どおりに出来たと思います」
と、その瞬間を振り返った。

 高層ビルが揺れ、建物が崩れます。
 地震の規模を示すマグニチュードは9.0。
 日本の観測史上最大の地震です。
 震源は宮城県沖約130キロで、東北地方一帯に、大きな被害を及ぼしました。


午後二時五十四分。

 東京では下村内閣審議官が、官邸内の危機管理センターへ。
 地震の規模から、多数の犠牲者が予想されました。
 政府は対策チームを招集します。
下村健一内閣審議官が、その時の緊迫した状況について、
「これはもう、地元の行政が例えば救助の要請を出してくるとか・・・、そういう事を待たずにきっと動き出すしかないだろうと言うことは、あの規模から直感しました」
と、危機管理センター内の判断を語った。

 被災地には、5つの原発があります。
 最大規模を誇る福島第一原発は、首都圏の電力の供給源です。
 官邸は情報の遅れに、苛立っていました。
 東京電力からの情報は、全て原子力安全・保安院を通して伝えられます。
森山善範・原子力災害対策監は、その時の状況を、
「地震後に、原子力安全・保安院で受けた連絡としては、まずは地震が起きて、原子炉が安全に停止をしたと。・・・それから、地上の電源が起ち上がったと・・・」
こう述べた。

 福島第一原発と震源との距離は、178キロありました。
 揺れを感知すると、原子炉は自動停止し、安全な状態に入ります。
 作業員が建屋内部に入り、施設への被害は、最小限であると確認した。
 しかし強い揺れは、外部電源を奪いました。
 非常用電源(Emergency Power)が作動し、原子炉の自動停止が進みます。


午後二時五十四分。

 NHKが国会中継を中断し、緊急地震速報の臨時ニュースの放送を始めた。
「津波警報が発令されました」
 これが大津波警報の第一報だった・・・。
 警戒の対象地域は、太平洋一帯。
 福島も例外ではありません。

 地震後、堀内さんの学校では児童全員が無事でした。
 マニュアルに従い避難します。
 児童はバスに乗り、自宅のある海岸方面へ向かいました。
 津波警報を知らずに・・・。
 福島第一原発でも、避難が始まりました。
 作業員たちは津波に備え、一時的に避難します。


午後三時二十七分。

 各地の海岸では、津波の映像がとらえられていました。

 福島第一原発も、津波の襲来を受け、敷地内が浸水。
 そして非常用電源も喪失ーーー。
 建屋で損傷の確認作業をしていた2名は、一瞬で命を奪われます。
 闇に包まれた中央制御室ーーー。
 原子炉内の温度や圧力を確認できません。
 全ての機器メーターは動かず、ついに冷却機能が失われます。

 堀内さんは不安でした。
 他の子供たちは無事でしょうか?
 堀内さんはその時、見慣れない光景を目撃しました。
「海から4キロも離れている国道6号線に、ボートが流されているのを見て、非常に心配でした」
と、心境を振り返った。


午後三時三十七分。

 首相官邸では、福島第一原発の全電源喪失が、菅首相に伝えられた。
 事態の状況を、専門家が首相に説明した。
 この時のやりとりについて、下村健一内閣審議官は、
「この専門家という人たちが、ほとんど答えられないんですよね・・・」
と振り返り、さらに、
「何をすべきか、と言うことについて。・・・つまり彼らにとって想定外だったから」
と付け加え、事態の深刻さと専門家の甘さを認識させらることとなった。

 作業員たちは原子炉を冷却しようと、知恵を絞ります。
 最悪の事態は刻一刻と迫り、もはや現場の作業員たちの「英知」だけが頼りとなった。
森山善範・原子力災害対策監は、その時の判断を振り返り、
「電源車を集める・・・。電源車による電気の供給を行う事が、ほぼ唯一の手段となりました」
との結論に至ったと語る。
 福島第一原発付近の道路は寸断されていました。
 発電機の調達は望めません。


午後六時八分。

 1号機の制御室では、作業員が原子炉の状態を確認しようと奮闘中でした。
 乗用車や作業トラックなどの車のバッテリーを、必要な計器につなぎ込みます。
 回路一つずつを確認してゆく。
 放射線量が上昇を始めました。
 被ばくを防ぐため、防護服と防護マスクを着用します。
 原子炉内の圧力が、上昇していましたーーー。

 圧力を下げる方法を探ります。


     第二章
     『ベントを開けろ』


午後七時三分。

 首相官邸。
 状況を知った菅首相は、緊急事態宣言を発令します。
下村健一内閣審議官がその時の様子を振り返り、
「大変な事だよ、これは!と言う言葉を何度も独り言のように繰り返していたのを覚えています」
と沈鬱な表情で語った。
 しかし、官邸に入る情報は限られていました。
 福島第一原発と直接連絡を取ることも出来ません。

 混乱している中でも、専門家たちは楽観的でした。
森山善範・原子力災害対策監がその時のことを、
「格納容器の圧力が上がるのを止める手段ですが・・・、圧力を逃がすための弁があります。ベントと言う・・・」
かいつまんで話した。
 専門家は弁を開放して、圧力を下げる方法を提案した。

 当初、東京電力は拒否しましたーーー。
 放射性物質が大気中に放出されることを恐れたのです。

 しかし、最終的には、圧力を下げに向かいます。
 暗闇の中、圧力弁探しは難航しました。
 懐中電灯の明かりだけが頼りです。
 その間にも線量計の数値は、次第に上昇していきます。
 理由として、原子炉の損傷が疑われました。


午後九時〇〇分。

 官邸に悪い知らせが届きます。
 福島第一原発に向かった電源車の事でした。
 津波の影響で、発電所に入ってもガレキなどがたくさんあって、電源車がスムーズに進む事が出来ませんでした。
 散乱するガレキに阻まれ、電源車が到達出来なかったのです。

 原発から8キロの自宅で、堀内さんは不安を募らせていました。
 堀内さんの夫は外国人で、二人で話し合ったと言います。
「原発が危ないんじゃないか、という噂話をあちこちでしていましたので、その時に初めて、ああ・・・もしかしたら原発が危ないのかなって言うふうに感じました」
 自治体にも情報は入ってきません。
 堀内さんの夫、ドミニク・シュワルツさんは海外へ情報を求めます。
「ネットには接続出来たので、海外の新聞をチェックしました。」
と、ドミニクさんがこわばった表情で、その時の事を話した。
「海外の新聞は、被害を露骨に報じていました・・・。それから私の妻が原発の問題を噂で聞いたんです」
ドミニクさんは一呼吸おいて、
「翌朝、避難することにしました」
と、夜明けを待って行動する決意をしたことを話した。
 堀内さん夫妻は、暗い中での移動は危険と判断し、夜明けを待ったのです。
「電気もなくて、道路も・・・もう割れていましたので、朝の五時にそこを出発しました」

 一方、福島第一原発の1号機では、原子炉内の圧力が上昇を続け、爆発が危ぶまれました。
 しかし、圧力弁はまだ見つかりません。


三月十二日 土曜日午前五時〇〇分。

 堀内さん夫妻は福島第一原発から8キロの自宅を出発しました。
「とにかく、第一原発から遠くに、遠くにと言う考えがありまして、私たちが出たのは朝の5時で、6時にはもう一斉放送が入って、逃げてくださいと言う事だったんで・・・」
 堀内さんはカーラジオで情報を得ました。
 1時間後、避難する車で道路は大渋滞します。
 被爆を恐れた住民たちが、一斉に退避を始めたのです。


午前七時〇〇分。

 情報の遅れに苛立ちを覚えた菅首相は、直接、原発へ乗り込みます。
下村健一内閣審議官がその時の状況を語る。
「ヘリコプターで何キロメートル飛んでも、飛んでも、いつまでも同じように、水浸しになった、海と陸の境目がつかないような光景が展開していました」
 菅首相は、口を押さえたまま絶句し、眼下を見下ろしていたーーー。

 福島第一原発に着いた菅首相は所長と面会。
 圧力弁を開けない理由を問いただしました。
「所長が・・・たしか・・・あと4時間ぐらいのうちには、開けますからと・・・言うような事を答えて・・・」
と、険しい表情で、下村健一内閣審議官がその場のやりとりを振り返り、
「総理が、昨日からずっと・・・もうじき開けます、もうじき開けます、ばっかりじゃないですか! どうなっているんですか!?」
と、激昂した状況を明かした。


午前十時十七分。

 原発建屋内部。
 暗闇と高い放射線量を前に、圧力弁探しは難航します。
 既に作業員1人が、過酷な作業で病院に搬送されていました。

 ようやく見つけると、手作業で開きに取り掛かります。
 通常であれば電動で行われる作業です。
 今は車のバッテリーと腕力だけが頼りです。
森山善範・原子力災害対策監の証言・・・。
「安全に弁を開けられた結果として、格納容器の圧力が下がりました」
 これで1号機は危機を脱したと思われましたーーー。
 あとは電源の確保と、核燃料の冷却です。
 
 しかし、放射線量は上昇を続けます。
 放射性物質を含む蒸気が放出されたせいではなく、厚さ15センチメートルの鋼鉄製圧力容器に、破損の恐れがありました。
 核燃料が溶けて、外へ漏れた可能性もあります。
 予断を許さない状況でした。


     第三章
     『避難対象3000万人』


午後三時三十六分。

 福島第一原発を、大きな余震が襲います。
「東京電力からの報告は・・・、大きな揺れを感じた・・・」
と言うものでしたと、森山善範・原子力災害対策監は話し、


 その時、1号機の建屋で、爆発が発生!
「という事と、爆煙が上がってる。・・・白い煙ですね・・・爆発による煙が上がってる・・・」
という報告を受けた。
 1号機の近くでは、急激な放射線量の上昇が測定されました。
 圧力容器が損傷し、漏洩している可能性が強まります。
 他の原子炉も圧力が上昇していました。
「爆発をした1号機以外にも問題があると・・・。1号、2号、3号とも非常に厳しい状況であると・・・」
森山善範・原子力災害対策監に伝えられた。

 その二日後ーーー。


三月十四日 午前十一時〇一分。

 より大きな爆発が発生し、3号機の建屋が吹き飛びます。

 この爆発に、菅首相は衝撃を受けました。
下村健一内閣審議官はその時、
「私には、絶望感のようなものがありましたーーー。総理もすぐ横に、やはり専門家の人に向かって、『爆発は起きないって言ってたじゃないですか!どういう事なんですか!』・・・やはり聞いてましたね」
 一様に声を荒げたと言う。
 放射性物質の拡散を懸念する官邸ーーー。
 全世界が同じ思いでニュースを見守ります。
 
 原発周辺の放射線量は、更に上昇していました。
 福島第一原発は依然として、制御不能です。
 菅首相は会見を開き、厳しい現実を国民に伝えました。
「今後さらなる放射性物質の漏洩の危険が高まっております」

 いつ自宅に帰れるかも分からないまま、18万人が遠く離れた土地への一時避難を強いられました。
 堀内さんは、原発から80キロ離れていましたが、もっと遠い所へ行きたいと思っていました。
 その時の切迫した心境を、こう語る。
「出来れば海外に行きたいっていう事を考えていましたけれども、とにかく飛行機の席がもう取れない状態で、近くの空港から、どこか遠くに飛ぼうと・・・、福島空港から遠くに行こうと思いましたが、どれも席が取れない・・・」
 堀内さん家族は、放射能を恐れながらその場に残るしかなかったのです。


三月十五日午前六時〇〇分。

 3号機で爆発音がして、火災が発生します。
森山善範・原子力災害対策監はその時のことを、 
「従って、1号機の水素爆発のあと、2号機、3号機の水素爆発を防ぐという事を目標にしてやって来ましたが、残念ながら、それが実現出来なかった、と言うのが現状です」
と、沈鬱な表情で振り返った。

 炎が収まった4号機で、水蒸気が確認されました。
 燃料プールの水が蒸発すれば、水位が下がり、核燃料が露出します。
 燃料の溶融が起きかねません・・・メルトダウンの危機です。
 燃料プールの水位を上げる必要がありました。
 ヘリコプターを使って、放水します。
 海水を使えば、原子炉は腐食し、廃炉はさけられません。
 
 風にあおられ、散水は難航しました。
 高い放射線量が、作業を困難にします。
 核燃料の露出を防ぐ任務は、消防隊員らに託されましたーーー。
 
 消防指令長は精鋭部隊を率いて、放水活動に臨みます。
「しかし現場に行ってしまうと、やはり、国民・・・日本国民の期待に応えたい・・・。と言うふうに思いまして・・・」
 最初に派遣された消防隊を指揮したのは、
鈴伊知郎・川崎市消防局 消防指令長であった。
「福島原発の内部は、ほんとうにもう・・・怪獣映画さながらの状況でした」
 暗闇と、高放射性量、そして散乱する瓦礫との戦いが始まった。
 消防などによる決死の放水活動は、数日間続きました。

 被爆を防ぐため、二重に防護服を着ます。
鈴伊知郎・川崎市消防局 消防指令長は放水作業について、
「私くし、7時間ぐらい防護衣を着ていたんですが、非常に暑かったです。・・・当然、7時間の間は一切水を飲みませんし、トイレも行けない状況で、非常にストレスを感じていました」
と、作業の過酷さを振り返る。
 核燃料冷却のために、放水を行った結果、汚染された水が大量に海へ流れ出しました。

 福島から約230キロ離れた東京でも、水道水の汚染が心配され始めます。
 避難区域を半径250キロ圏へ拡大する事態になれば、東京都民を含め、約3000万人が避難の対象になります。
 前例のない事態に、政府の判断力が問われます。

 原発の電力が復旧したのは、約2週間後ーーー。
 事故の連鎖は防げませんでした。
 
 放射性物質の放出は続いています。
 福島第一原発の動向に、全世界が注目しています。

 福島第一原発が、深刻な事態を招いた原因とは?


     第四章
     『そして放射能は残った』


五月二十三日。

 国際原子力機関(IAEA)の調査団を、政府が受け入れた事を受け、国際原子力機関(IAEA)の調査団が来日した。


五月二十七日。

 調査団が福島第一原発を訪れました。
 日本の専門家たちと事故後の対応について、情報を交換するためです。
 事故の再発防止策も重要な課題です。

 調査団長は、核物理学者のマイク・ウェイトマン博士。
国際原子力機関調査団長 マイク・ウェイトマン博士の話です。
「入り口付近は、整然としていました。・・・中へ進むと、建屋が目に入りました。直接、現場を見て、大変な事故が起きたことを、改めて実感しました。」

 6基の原子炉のうち、3つの原子炉は修理不可能です。
 福島第一原発は安全を最優先に作られた施設でした。
 スリーマイル島や、チェルノブイリ事故も、忘れられていませんーーー。
 日本では地震や津波の恐れは、常に存在するのです。

『ーーー検証ーーー』

 まず津波対策として、防波堤を構築。
 原子炉は頑丈な岩盤の上に設置されました。
 電源喪失に備え、非常用電源の用意もありました。

 それでも事故は防げなかったのです。
 事故当日を振り返り、調査記録を基に検証し、原発事故の真相に迫ります。
 なぜ事故は起きたのか?


 核物理学者のマイク・ウェイトマン博士は、事故が深刻化した理由を探ります。
 そして福島第一原発の決定的な弱点として、津波よりも地震に重点を置いた設計に着目しました。

福島原発 建設時の記録映像に謎を解くヒントがありました。
 1960年代に建設が始まった際、台地を25メートル削り、敷地が造成されました。これはマンションなら約8階建ての高さになります。
 原子炉を岩盤上に、直接設置するためです。
 確かに耐震性は高まりますが、津波に対しては無防備です。
 そこで周りに防波堤が築かれました。
 想定水位は、最大6メートルでした。

 しかし、津波は防波堤をたやすく乗り越えました。
「津波により福島第一原発は、約15メートル浸水しましたーーー。浸水は施設の大部分に及んでいます。津波対策が、全く不十分だったと言うことです」
と、マイク・ウェイトマン博士は浸水直後のビデオ映像を見ながら、解説しました。

 作業員が撮影した津波の映像ですーーー。
 別の作業員は浸水の様子を、写真に収めていました。
 防波堤は低すぎたのです。
 設計段階のミスが引き金となり、メルトダウンの危機へと発展したのです。
 完成した時点で、破滅(カタストロフィ)へのカウントダウンは始まってしまったーーー。

 まず地震で電源を失いました。
 大きな揺れで、送電用の鉄塔が倒壊したためです。

国際原子力機関調査団長 マイク・ウェイトマン博士が解説する。
「揺れを感知すると、原子炉は自動的に緊急停止を始めます。ーーーそして非常用電源が起ち上がります」
「原発には非常用電源が備わっています。福島第一原発には、6つの原子炉に13基が設置され、地震直後は正常に動いていました」
 続いて津波が到来ーーー。
 大量の水が流れ込み、非常用電源は水没します。
「非常用電源は、タービン建屋の地下にありました。低い場所に位置していたため、浸水被害が増大したのです」

 防水ドアも津波には役立ちません。
 全電源を喪失しました。
 そして原子炉にある、圧力容器の温度が上昇を始めます。
 状況は明快でした・・・。
マイク・ウェイトマン博士が説明を続けます。
「原子炉圧力容器は、それ自体が大きな構造物です。・・・高さが約20メートルもありますが、仕組みはヤカンと同様です。原子力発電は核分裂の熱で、水を蒸気に変えタービンを回します。電源が失われたことで、冷却水の循環が停止ーーー。しかし、緊急停止後も核燃料は崩壊熱を発し続けます。原子力発電において、冷却機能は最も重要です。核燃料は冷却し続ける必要があるのです」

「しかし、電源の喪失で冷却機能が停止・・・。核燃料の温度が上がり、溶け出して、大量の放射性物質が放出されました。しかも、電源の喪失で計器が止まり、原子炉内の状態は把握出来ません・・・」
 この時の福島第一原発敷地内の様子について、
「5月に現地へ行きましたが、多くの乗用車が、施設内に放置されていました。作業員たちは車のバッテリーを取り出し、計器に繋いでいたのです」
 と、その時の光景を振り返った。
 アイデアが功を奏し、原子炉の状態が一時的に分かります。
「原子炉の水位を確認するために、作業員たちは必死に計器を見ようとしました」
 作業員はバッテリーの電力で機器を動かし、圧力弁を開けますーーー。

 計器は、原子炉が過熱している事を示していました。
 しかし冷却機能が停止し、打つ手がありませんーーー。

 更に設備面の問題が、事態の悪化を招きます。
 マイク・ウェイトマン博士は、旧型の原子炉に爆発の原因があると指摘します。

国際原子力機関調査団長で核物理学者のマイク・ウェイトマン博士が解説する。
「原子炉内の燃料棒は、循環する水で常に冷却されています。ーーー燃料棒を覆うジルコニウムは、高温でも腐食しにくい上、核分裂を阻害しません。しかし一定の温度を超えると、不安定になります。燃料棒の温度が上がると、ジルコニウムと水が反応して、水素が発生します。当時、原子炉は2800度に達したと推測されます。ジルコニウムが反応しても、おかしくはありません」
 水素爆発を防ぐために、作業員たちは格納容器に、炉内で発生した水素を逃がします。
 これと同時に放射性物質が放出ーーー。
 それらは弁を通り、外へと漏れ出します。
 しかし、水素は全てが放出されず、多くが建屋の上部にたまります。
 それが水素爆発を引き起こしました。
「設備の損傷もあり、簡単に引火したと思われます」
と、マイク・ウェイトマン博士は推測した。

 たまった水素により、福島第一原発の1号機と3号機は大爆発。
 4号機では大火災が発生しました。

ーーー世界中に衝撃が走ります。

アメリカNBC、CNN、イギリスBBC、ロシアRTRが速報で事態を伝え始めた。
「日本は危機に直面しています」
「放射能汚染が心配されます」
「海外では多くの専門家たちが、事態を深刻に見ています」
「チェルノブイリ事故の再来です」
 日本政府の発表とは異なり、脅える人々の脳裏に、地球規模の大汚染を招いたチェルノブイリ事故がよぎります。
 チェルノブイリでは原子炉が爆発し、核燃料8トンが放出されました。

 福島第一原発から飛散した放射性物質の量を、チェルノブイリ事故を例に再検証します。
「福島第一原発から放出された放射性物質は・・・、チェルノブイリの約1割で、範囲も限られていました」
と、マイク・ウェイトマン博士らは考えている。
 しかし、同様の事態に発展していた可能性が指摘されています。
 原子炉に水素がたまり、圧力が高まれば、建屋だけでなく、原子炉自体の爆発を引き起こします。
 3号機には約90トンのプルトニウムとウラン燃料がありました。
 これが屋外に放出されれば、チェルノブイリと同じ事態が起こります。

 菅首相命令で原子炉の圧力弁を開放したため、恐るべき事態は回避されました。

 マイク・ウェイトマン博士は、現場の判断は妥当と評価しました。

 津波から約2週間後、電源が復旧すると、原子炉の温度は下がり始めました。
 しかし、溶融した燃料から放射性物質が出ていて、ロボットしか近づけません。
 建屋内の除染には何年もかかります。安全が確認されない限り、立ち入り調査は出来ません。
『今回の事故の連鎖は、設計ミスが原因でした』


 次にマイク・ウェイトマン博士は、東京電力側の責任について追及します。
 彼は津波対策の怠慢を指摘しました。
 2002年に東京電力は、津波に関する試算を行っています。
 その際、福島第一原発に津波の被害が及ぶような大地震は、今後30年間起きないと結論づけました。
ところが・・・・・
マイク・ウェイトマン博士はこの点を厳しく指摘します。
「東京電力の津波対策は不十分でした。過小評価することなく、あらゆる対策を練る必要がありました」

 東京電力は、安全基準に沿って対策を講じていたものの、想定外の津波が事故を招いたと主張。現場の対応にも、落ち度は無いと説明しています。
 事故のあと、福島第一原発から放射性物質が拡散しました。
 放射能汚染に関する住民への説明は、十分に行われませんでした。
 東京電力と政府の対応が非難されています。
小学校教師の堀内恵里子さんは、
「放射能汚染に関する説明がないまま、避難地域の拡大が発表されました」
と、どこからも説明が無かったことを明かす。

 政府内でも情報公開を巡り紛糾。
 菅首相は公開を求めましたが、専門家の意見に頼らざるを得ませんでした。結果的に、専門家の判断が、避難住民の混乱を招きました。
下村健一内閣審議官が混乱の数日間を、
「地震発生以来数日間、とにかく原発はこれからどうなるんだ! と言う質問に対して、それはもう、設計上ありません、と言う専門家。しかしそれが目の前で起こった・・・。この人たちの言う事は、何を信じたらいいんだ・・・という絶望感のようなものがありました」
と、悲痛な表情で振り返った。
 東京電力から詳細情報が入らず、官邸の専門家も困っていました。
更に下村健一内閣審議官は続ける。
「事故現場に近い立場の人たちが、本当はどこまで知っていたのか? それが全部政府に共有されていたのか?」
下村健一内閣審議官の口元には、悔しさがにじんでいる。

 もはや菅首相の手に負えない事態でした。
 震災から約5ヶ月後、首相は辞任します。
 事故が収束する兆しは見えません。

 福島第一原発はの原子炉は、冷温停止しました。
 しかし放射性物質の放出は続いています。

マイク・ウェイトマン博士はこの事故について、
「完全に制御されるまでには、長い年月がかかるでしょう・・・」
と、指摘します。
 しかし、福島の事故をきっかけに世界は動き始めています。
 大きな決断をした国もあります。
 事故から2ヶ月後の2011年5月。ドイツは原子力からの脱却を決定し、再生可能エネルギーの推進に乗り出します。スイスとイタリアも続きました。
 日本は電力の約3割を原子力に依存しています。
 福島第一原発の停止を受け、首都圏では計画停電が行われました。
 交代した野田首相は、原子力推進の意向を示しています。

 福島第一原発の作業員たちや、放水に関わった消防隊員は、健康に異常がないかチェックを受けました。
 放射線の影響は、いつ出るか分かりません。

 小学校教師の堀内恵里子さんは、日本にとどまりました。現在、原発から80キロの距離に住んでいます。
 児童を乗せたバスは津波を逃れ、全員無事でした。
 
 福島第一原発の周辺では、事故の影響が続いています。
 半径20キロ圏内は、現在も計画区域です。
 農場は放棄されました。
 農地は表土を4センチ削るなどの除染が必要です。
 それまで農作物は育てられません。

 十万人以上いるとされる避難住民たちが、自宅に戻れる日は、まだ先ですーーー。

 
 
 原文・英語字幕・日本語字幕/ナショナル ジオグラフィック チャンネル/2012年4月15日


2012年9月 1日 (土)

9月になって、どうなのよ

ここまで暑い日が続くと、東北とか関東とか西日本とか関係なく、
どこもかしこも暑いのは暑い


しかもこの所、全く雨が降らない
夕立とかスコールも全然無くて、大地は干からび状態・・・拙者も干からびそう・・・
干害の心配の声が聞こえ始めたので、この暑い最中、近所のダムへ行って、事の真偽を確かめて見た。

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アグリネットから水田への供給制限がまだ出ていないと言う事で、
御所ダムの水位も酷い時の渇水期に比べれば、まだまだ余裕に見える。
満水時には、橋の下も全て水に隠れるが、
今は、草がボウボウ・・・


ニュースでは一部取水制限をした所もあるとか言っていたので、
どうかな~と思ったら、この水位なら、平年並みのようで、ちょっと安心


しかしちょっとピンチだったのは、エアコンの不調
(車じゃなく)
冷風ではなく、温風が出てくる~~
夜は完璧涼しいので大丈夫だけど、昼はやっぱり扇風機と風通しだけでは、身体がダレる

早速メーカーに修理を頼んだら、早い!
さすが世界一の業務用エアコンメーカー(ダイキン工業)だけあって、夜中に電話したら、ちゃんと応対に出てくれて、翌日・・・つまり今日飛んで来てくれた

はやーーーー!

設置からもう18年・・・

家電メーカーだったらこうも早く対応出来たか・・・。土曜日だしね。


かくしてどうにか冷房が復活したものの、もはや寿命ですよ、と言われ、
またまた頭の痛い問題が・・・・・・・・

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とりあえずこの残暑は何とかエアコンが効くそうなので、ちょっと安心。
そして来週は、車の車検
サウナのような運転から開放されそうだ。

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