この惨劇は何故起きたのか?
その時、「福島第一原発」では何が起こり、作業員や指揮官はどう判断し行動したのか?
危機に直面した人々の証言を基に、窮地に陥った状況を克明にする・・・。
ナショナル ジオグラフィック(NATIONAL GEOGRAPHIC) 衝撃の瞬間5 「福島第一原発」より
日本語字幕全文書き起こし。
これは実話であり、
公式の記録と目撃者、及び専門家の証言を基に
構成した時系列の記録です。
1945年(昭和20年)8月9日、日本に投下された原子爆弾によって、原子力の威力が世界に示されました。
今は平和利用されている原子力ですが、常に危険をはらんでいます。
1979年ーーー。
アメリカ・スリーマイル島原発事故では、大勢の人が避難。
1986年ーーー。
チェルノブイリ事故では、欧州が混乱に陥りました。
もう事故は、許されないはずでした。
しかし2011年ーーー。
大地震が、福島第一原発を襲います。
続いて大津波が到来。
原子力の脅威が再び日本を襲ったのです。
「全ての事故には、必ず原因があります。大惨事の陰に隠された、驚くべき真実に迫ります」
第一章
『マグニチュード9.0』
2011年3月11日。
日本。東北地方ーーー。
午後二時四十七分。
小学校教師の堀内恵里子さん(仮名)は、教室にいました。
突然、教室が揺れ出します。
「すごく揺れて、長い時間だったので、部屋の中のものが飛び散りました」
と、堀内さんは冷静に思い出しながら語った。
「机の下へ!」
冷静な判断が急がれます。
堀内さんはさらに続ける。
「子供たちと一緒に、机の下へ潜りました」
揺れは長く続きました。
東京でも強い揺れを感じました。
堀内さんの行動は的確でした。
「練習してましたので・・・。いつも避難訓練で練習してましたので、子供はちゃんと先生の言うことを聞いて、練習どおりに出来たと思います」
と、その瞬間を振り返った。
高層ビルが揺れ、建物が崩れます。
地震の規模を示すマグニチュードは9.0。
日本の観測史上最大の地震です。
震源は宮城県沖約130キロで、東北地方一帯に、大きな被害を及ぼしました。
午後二時五十四分。
東京では下村内閣審議官が、官邸内の危機管理センターへ。
地震の規模から、多数の犠牲者が予想されました。
政府は対策チームを招集します。
下村健一内閣審議官が、その時の緊迫した状況について、
「これはもう、地元の行政が例えば救助の要請を出してくるとか・・・、そういう事を待たずにきっと動き出すしかないだろうと言うことは、あの規模から直感しました」
と、危機管理センター内の判断を語った。
被災地には、5つの原発があります。
最大規模を誇る福島第一原発は、首都圏の電力の供給源です。
官邸は情報の遅れに、苛立っていました。
東京電力からの情報は、全て原子力安全・保安院を通して伝えられます。
森山善範・原子力災害対策監は、その時の状況を、
「地震後に、原子力安全・保安院で受けた連絡としては、まずは地震が起きて、原子炉が安全に停止をしたと。・・・それから、地上の電源が起ち上がったと・・・」
こう述べた。
福島第一原発と震源との距離は、178キロありました。
揺れを感知すると、原子炉は自動停止し、安全な状態に入ります。
作業員が建屋内部に入り、施設への被害は、最小限であると確認した。
しかし強い揺れは、外部電源を奪いました。
非常用電源(Emergency Power)が作動し、原子炉の自動停止が進みます。
午後二時五十四分。
NHKが国会中継を中断し、緊急地震速報の臨時ニュースの放送を始めた。
「津波警報が発令されました」
これが大津波警報の第一報だった・・・。
警戒の対象地域は、太平洋一帯。
福島も例外ではありません。
地震後、堀内さんの学校では児童全員が無事でした。
マニュアルに従い避難します。
児童はバスに乗り、自宅のある海岸方面へ向かいました。
津波警報を知らずに・・・。
福島第一原発でも、避難が始まりました。
作業員たちは津波に備え、一時的に避難します。
午後三時二十七分。
各地の海岸では、津波の映像がとらえられていました。
福島第一原発も、津波の襲来を受け、敷地内が浸水。
そして非常用電源も喪失ーーー。
建屋で損傷の確認作業をしていた2名は、一瞬で命を奪われます。
闇に包まれた中央制御室ーーー。
原子炉内の温度や圧力を確認できません。
全ての機器メーターは動かず、ついに冷却機能が失われます。
堀内さんは不安でした。
他の子供たちは無事でしょうか?
堀内さんはその時、見慣れない光景を目撃しました。
「海から4キロも離れている国道6号線に、ボートが流されているのを見て、非常に心配でした」
と、心境を振り返った。
午後三時三十七分。
首相官邸では、福島第一原発の全電源喪失が、菅首相に伝えられた。
事態の状況を、専門家が首相に説明した。
この時のやりとりについて、下村健一内閣審議官は、
「この専門家という人たちが、ほとんど答えられないんですよね・・・」
と振り返り、さらに、
「何をすべきか、と言うことについて。・・・つまり彼らにとって想定外だったから」
と付け加え、事態の深刻さと専門家の甘さを認識させらることとなった。
作業員たちは原子炉を冷却しようと、知恵を絞ります。
最悪の事態は刻一刻と迫り、もはや現場の作業員たちの「英知」だけが頼りとなった。
森山善範・原子力災害対策監は、その時の判断を振り返り、
「電源車を集める・・・。電源車による電気の供給を行う事が、ほぼ唯一の手段となりました」
との結論に至ったと語る。
福島第一原発付近の道路は寸断されていました。
発電機の調達は望めません。
午後六時八分。
1号機の制御室では、作業員が原子炉の状態を確認しようと奮闘中でした。
乗用車や作業トラックなどの車のバッテリーを、必要な計器につなぎ込みます。
回路一つずつを確認してゆく。
放射線量が上昇を始めました。
被ばくを防ぐため、防護服と防護マスクを着用します。
原子炉内の圧力が、上昇していましたーーー。
圧力を下げる方法を探ります。
第二章
『ベントを開けろ』
午後七時三分。
首相官邸。
状況を知った菅首相は、緊急事態宣言を発令します。
下村健一内閣審議官がその時の様子を振り返り、
「大変な事だよ、これは!と言う言葉を何度も独り言のように繰り返していたのを覚えています」
と沈鬱な表情で語った。
しかし、官邸に入る情報は限られていました。
福島第一原発と直接連絡を取ることも出来ません。
混乱している中でも、専門家たちは楽観的でした。
森山善範・原子力災害対策監がその時のことを、
「格納容器の圧力が上がるのを止める手段ですが・・・、圧力を逃がすための弁があります。ベントと言う・・・」
かいつまんで話した。
専門家は弁を開放して、圧力を下げる方法を提案した。
当初、東京電力は拒否しましたーーー。
放射性物質が大気中に放出されることを恐れたのです。
しかし、最終的には、圧力を下げに向かいます。
暗闇の中、圧力弁探しは難航しました。
懐中電灯の明かりだけが頼りです。
その間にも線量計の数値は、次第に上昇していきます。
理由として、原子炉の損傷が疑われました。
午後九時〇〇分。
官邸に悪い知らせが届きます。
福島第一原発に向かった電源車の事でした。
津波の影響で、発電所に入ってもガレキなどがたくさんあって、電源車がスムーズに進む事が出来ませんでした。
散乱するガレキに阻まれ、電源車が到達出来なかったのです。
原発から8キロの自宅で、堀内さんは不安を募らせていました。
堀内さんの夫は外国人で、二人で話し合ったと言います。
「原発が危ないんじゃないか、という噂話をあちこちでしていましたので、その時に初めて、ああ・・・もしかしたら原発が危ないのかなって言うふうに感じました」
自治体にも情報は入ってきません。
堀内さんの夫、ドミニク・シュワルツさんは海外へ情報を求めます。
「ネットには接続出来たので、海外の新聞をチェックしました。」
と、ドミニクさんがこわばった表情で、その時の事を話した。
「海外の新聞は、被害を露骨に報じていました・・・。それから私の妻が原発の問題を噂で聞いたんです」
ドミニクさんは一呼吸おいて、
「翌朝、避難することにしました」
と、夜明けを待って行動する決意をしたことを話した。
堀内さん夫妻は、暗い中での移動は危険と判断し、夜明けを待ったのです。
「電気もなくて、道路も・・・もう割れていましたので、朝の五時にそこを出発しました」
一方、福島第一原発の1号機では、原子炉内の圧力が上昇を続け、爆発が危ぶまれました。
しかし、圧力弁はまだ見つかりません。
三月十二日 土曜日午前五時〇〇分。
堀内さん夫妻は福島第一原発から8キロの自宅を出発しました。
「とにかく、第一原発から遠くに、遠くにと言う考えがありまして、私たちが出たのは朝の5時で、6時にはもう一斉放送が入って、逃げてくださいと言う事だったんで・・・」
堀内さんはカーラジオで情報を得ました。
1時間後、避難する車で道路は大渋滞します。
被爆を恐れた住民たちが、一斉に退避を始めたのです。
午前七時〇〇分。
情報の遅れに苛立ちを覚えた菅首相は、直接、原発へ乗り込みます。
下村健一内閣審議官がその時の状況を語る。
「ヘリコプターで何キロメートル飛んでも、飛んでも、いつまでも同じように、水浸しになった、海と陸の境目がつかないような光景が展開していました」
菅首相は、口を押さえたまま絶句し、眼下を見下ろしていたーーー。
福島第一原発に着いた菅首相は所長と面会。
圧力弁を開けない理由を問いただしました。
「所長が・・・たしか・・・あと4時間ぐらいのうちには、開けますからと・・・言うような事を答えて・・・」
と、険しい表情で、下村健一内閣審議官がその場のやりとりを振り返り、
「総理が、昨日からずっと・・・もうじき開けます、もうじき開けます、ばっかりじゃないですか! どうなっているんですか!?」
と、激昂した状況を明かした。
午前十時十七分。
原発建屋内部。
暗闇と高い放射線量を前に、圧力弁探しは難航します。
既に作業員1人が、過酷な作業で病院に搬送されていました。
ようやく見つけると、手作業で開きに取り掛かります。
通常であれば電動で行われる作業です。
今は車のバッテリーと腕力だけが頼りです。
森山善範・原子力災害対策監の証言・・・。
「安全に弁を開けられた結果として、格納容器の圧力が下がりました」
これで1号機は危機を脱したと思われましたーーー。
あとは電源の確保と、核燃料の冷却です。
しかし、放射線量は上昇を続けます。
放射性物質を含む蒸気が放出されたせいではなく、厚さ15センチメートルの鋼鉄製圧力容器に、破損の恐れがありました。
核燃料が溶けて、外へ漏れた可能性もあります。
予断を許さない状況でした。
第三章
『避難対象3000万人』
午後三時三十六分。
福島第一原発を、大きな余震が襲います。
「東京電力からの報告は・・・、大きな揺れを感じた・・・」
と言うものでしたと、森山善範・原子力災害対策監は話し、
その時、1号機の建屋で、爆発が発生!
「という事と、爆煙が上がってる。・・・白い煙ですね・・・爆発による煙が上がってる・・・」
という報告を受けた。
1号機の近くでは、急激な放射線量の上昇が測定されました。
圧力容器が損傷し、漏洩している可能性が強まります。
他の原子炉も圧力が上昇していました。
「爆発をした1号機以外にも問題があると・・・。1号、2号、3号とも非常に厳しい状況であると・・・」
森山善範・原子力災害対策監に伝えられた。
その二日後ーーー。
三月十四日 午前十一時〇一分。
より大きな爆発が発生し、3号機の建屋が吹き飛びます。
この爆発に、菅首相は衝撃を受けました。
下村健一内閣審議官はその時、
「私には、絶望感のようなものがありましたーーー。総理もすぐ横に、やはり専門家の人に向かって、『爆発は起きないって言ってたじゃないですか!どういう事なんですか!』・・・やはり聞いてましたね」
一様に声を荒げたと言う。
放射性物質の拡散を懸念する官邸ーーー。
全世界が同じ思いでニュースを見守ります。
原発周辺の放射線量は、更に上昇していました。
福島第一原発は依然として、制御不能です。
菅首相は会見を開き、厳しい現実を国民に伝えました。
「今後さらなる放射性物質の漏洩の危険が高まっております」
いつ自宅に帰れるかも分からないまま、18万人が遠く離れた土地への一時避難を強いられました。
堀内さんは、原発から80キロ離れていましたが、もっと遠い所へ行きたいと思っていました。
その時の切迫した心境を、こう語る。
「出来れば海外に行きたいっていう事を考えていましたけれども、とにかく飛行機の席がもう取れない状態で、近くの空港から、どこか遠くに飛ぼうと・・・、福島空港から遠くに行こうと思いましたが、どれも席が取れない・・・」
堀内さん家族は、放射能を恐れながらその場に残るしかなかったのです。
三月十五日午前六時〇〇分。
3号機で爆発音がして、火災が発生します。
森山善範・原子力災害対策監はその時のことを、
「従って、1号機の水素爆発のあと、2号機、3号機の水素爆発を防ぐという事を目標にしてやって来ましたが、残念ながら、それが実現出来なかった、と言うのが現状です」
と、沈鬱な表情で振り返った。
炎が収まった4号機で、水蒸気が確認されました。
燃料プールの水が蒸発すれば、水位が下がり、核燃料が露出します。
燃料の溶融が起きかねません・・・メルトダウンの危機です。
燃料プールの水位を上げる必要がありました。
ヘリコプターを使って、放水します。
海水を使えば、原子炉は腐食し、廃炉はさけられません。
風にあおられ、散水は難航しました。
高い放射線量が、作業を困難にします。
核燃料の露出を防ぐ任務は、消防隊員らに託されましたーーー。
消防指令長は精鋭部隊を率いて、放水活動に臨みます。
「しかし現場に行ってしまうと、やはり、国民・・・日本国民の期待に応えたい・・・。と言うふうに思いまして・・・」
最初に派遣された消防隊を指揮したのは、
鈴伊知郎・川崎市消防局 消防指令長であった。
「福島原発の内部は、ほんとうにもう・・・怪獣映画さながらの状況でした」
暗闇と、高放射性量、そして散乱する瓦礫との戦いが始まった。
消防などによる決死の放水活動は、数日間続きました。
被爆を防ぐため、二重に防護服を着ます。
鈴伊知郎・川崎市消防局 消防指令長は放水作業について、
「私くし、7時間ぐらい防護衣を着ていたんですが、非常に暑かったです。・・・当然、7時間の間は一切水を飲みませんし、トイレも行けない状況で、非常にストレスを感じていました」
と、作業の過酷さを振り返る。
核燃料冷却のために、放水を行った結果、汚染された水が大量に海へ流れ出しました。
福島から約230キロ離れた東京でも、水道水の汚染が心配され始めます。
避難区域を半径250キロ圏へ拡大する事態になれば、東京都民を含め、約3000万人が避難の対象になります。
前例のない事態に、政府の判断力が問われます。
原発の電力が復旧したのは、約2週間後ーーー。
事故の連鎖は防げませんでした。
放射性物質の放出は続いています。
福島第一原発の動向に、全世界が注目しています。
福島第一原発が、深刻な事態を招いた原因とは?
第四章
『そして放射能は残った』
五月二十三日。
国際原子力機関(IAEA)の調査団を、政府が受け入れた事を受け、国際原子力機関(IAEA)の調査団が来日した。
五月二十七日。
調査団が福島第一原発を訪れました。
日本の専門家たちと事故後の対応について、情報を交換するためです。
事故の再発防止策も重要な課題です。
調査団長は、核物理学者のマイク・ウェイトマン博士。
国際原子力機関調査団長 マイク・ウェイトマン博士の話です。
「入り口付近は、整然としていました。・・・中へ進むと、建屋が目に入りました。直接、現場を見て、大変な事故が起きたことを、改めて実感しました。」
6基の原子炉のうち、3つの原子炉は修理不可能です。
福島第一原発は安全を最優先に作られた施設でした。
スリーマイル島や、チェルノブイリ事故も、忘れられていませんーーー。
日本では地震や津波の恐れは、常に存在するのです。
『ーーー検証ーーー』
まず津波対策として、防波堤を構築。
原子炉は頑丈な岩盤の上に設置されました。
電源喪失に備え、非常用電源の用意もありました。
それでも事故は防げなかったのです。
事故当日を振り返り、調査記録を基に検証し、原発事故の真相に迫ります。
なぜ事故は起きたのか?
核物理学者のマイク・ウェイトマン博士は、事故が深刻化した理由を探ります。
そして福島第一原発の決定的な弱点として、津波よりも地震に重点を置いた設計に着目しました。
福島原発 建設時の記録映像に謎を解くヒントがありました。
1960年代に建設が始まった際、台地を25メートル削り、敷地が造成されました。これはマンションなら約8階建ての高さになります。
原子炉を岩盤上に、直接設置するためです。
確かに耐震性は高まりますが、津波に対しては無防備です。
そこで周りに防波堤が築かれました。
想定水位は、最大6メートルでした。
しかし、津波は防波堤をたやすく乗り越えました。
「津波により福島第一原発は、約15メートル浸水しましたーーー。浸水は施設の大部分に及んでいます。津波対策が、全く不十分だったと言うことです」
と、マイク・ウェイトマン博士は浸水直後のビデオ映像を見ながら、解説しました。
作業員が撮影した津波の映像ですーーー。
別の作業員は浸水の様子を、写真に収めていました。
防波堤は低すぎたのです。
設計段階のミスが引き金となり、メルトダウンの危機へと発展したのです。
完成した時点で、破滅(カタストロフィ)へのカウントダウンは始まってしまったーーー。
まず地震で電源を失いました。
大きな揺れで、送電用の鉄塔が倒壊したためです。
国際原子力機関調査団長 マイク・ウェイトマン博士が解説する。
「揺れを感知すると、原子炉は自動的に緊急停止を始めます。ーーーそして非常用電源が起ち上がります」
「原発には非常用電源が備わっています。福島第一原発には、6つの原子炉に13基が設置され、地震直後は正常に動いていました」
続いて津波が到来ーーー。
大量の水が流れ込み、非常用電源は水没します。
「非常用電源は、タービン建屋の地下にありました。低い場所に位置していたため、浸水被害が増大したのです」
防水ドアも津波には役立ちません。
全電源を喪失しました。
そして原子炉にある、圧力容器の温度が上昇を始めます。
状況は明快でした・・・。
マイク・ウェイトマン博士が説明を続けます。
「原子炉圧力容器は、それ自体が大きな構造物です。・・・高さが約20メートルもありますが、仕組みはヤカンと同様です。原子力発電は核分裂の熱で、水を蒸気に変えタービンを回します。電源が失われたことで、冷却水の循環が停止ーーー。しかし、緊急停止後も核燃料は崩壊熱を発し続けます。原子力発電において、冷却機能は最も重要です。核燃料は冷却し続ける必要があるのです」
「しかし、電源の喪失で冷却機能が停止・・・。核燃料の温度が上がり、溶け出して、大量の放射性物質が放出されました。しかも、電源の喪失で計器が止まり、原子炉内の状態は把握出来ません・・・」
この時の福島第一原発敷地内の様子について、
「5月に現地へ行きましたが、多くの乗用車が、施設内に放置されていました。作業員たちは車のバッテリーを取り出し、計器に繋いでいたのです」
と、その時の光景を振り返った。
アイデアが功を奏し、原子炉の状態が一時的に分かります。
「原子炉の水位を確認するために、作業員たちは必死に計器を見ようとしました」
作業員はバッテリーの電力で機器を動かし、圧力弁を開けますーーー。
計器は、原子炉が過熱している事を示していました。
しかし冷却機能が停止し、打つ手がありませんーーー。
更に設備面の問題が、事態の悪化を招きます。
マイク・ウェイトマン博士は、旧型の原子炉に爆発の原因があると指摘します。
国際原子力機関調査団長で核物理学者のマイク・ウェイトマン博士が解説する。
「原子炉内の燃料棒は、循環する水で常に冷却されています。ーーー燃料棒を覆うジルコニウムは、高温でも腐食しにくい上、核分裂を阻害しません。しかし一定の温度を超えると、不安定になります。燃料棒の温度が上がると、ジルコニウムと水が反応して、水素が発生します。当時、原子炉は2800度に達したと推測されます。ジルコニウムが反応しても、おかしくはありません」
水素爆発を防ぐために、作業員たちは格納容器に、炉内で発生した水素を逃がします。
これと同時に放射性物質が放出ーーー。
それらは弁を通り、外へと漏れ出します。
しかし、水素は全てが放出されず、多くが建屋の上部にたまります。
それが水素爆発を引き起こしました。
「設備の損傷もあり、簡単に引火したと思われます」
と、マイク・ウェイトマン博士は推測した。
たまった水素により、福島第一原発の1号機と3号機は大爆発。
4号機では大火災が発生しました。
ーーー世界中に衝撃が走ります。
アメリカNBC、CNN、イギリスBBC、ロシアRTRが速報で事態を伝え始めた。
「日本は危機に直面しています」
「放射能汚染が心配されます」
「海外では多くの専門家たちが、事態を深刻に見ています」
「チェルノブイリ事故の再来です」
日本政府の発表とは異なり、脅える人々の脳裏に、地球規模の大汚染を招いたチェルノブイリ事故がよぎります。
チェルノブイリでは原子炉が爆発し、核燃料8トンが放出されました。
福島第一原発から飛散した放射性物質の量を、チェルノブイリ事故を例に再検証します。
「福島第一原発から放出された放射性物質は・・・、チェルノブイリの約1割で、範囲も限られていました」
と、マイク・ウェイトマン博士らは考えている。
しかし、同様の事態に発展していた可能性が指摘されています。
原子炉に水素がたまり、圧力が高まれば、建屋だけでなく、原子炉自体の爆発を引き起こします。
3号機には約90トンのプルトニウムとウラン燃料がありました。
これが屋外に放出されれば、チェルノブイリと同じ事態が起こります。
菅首相命令で原子炉の圧力弁を開放したため、恐るべき事態は回避されました。
マイク・ウェイトマン博士は、現場の判断は妥当と評価しました。
津波から約2週間後、電源が復旧すると、原子炉の温度は下がり始めました。
しかし、溶融した燃料から放射性物質が出ていて、ロボットしか近づけません。
建屋内の除染には何年もかかります。安全が確認されない限り、立ち入り調査は出来ません。
『今回の事故の連鎖は、設計ミスが原因でした』
次にマイク・ウェイトマン博士は、東京電力側の責任について追及します。
彼は津波対策の怠慢を指摘しました。
2002年に東京電力は、津波に関する試算を行っています。
その際、福島第一原発に津波の被害が及ぶような大地震は、今後30年間起きないと結論づけました。
ところが・・・・・
マイク・ウェイトマン博士はこの点を厳しく指摘します。
「東京電力の津波対策は不十分でした。過小評価することなく、あらゆる対策を練る必要がありました」
東京電力は、安全基準に沿って対策を講じていたものの、想定外の津波が事故を招いたと主張。現場の対応にも、落ち度は無いと説明しています。
事故のあと、福島第一原発から放射性物質が拡散しました。
放射能汚染に関する住民への説明は、十分に行われませんでした。
東京電力と政府の対応が非難されています。
小学校教師の堀内恵里子さんは、
「放射能汚染に関する説明がないまま、避難地域の拡大が発表されました」
と、どこからも説明が無かったことを明かす。
政府内でも情報公開を巡り紛糾。
菅首相は公開を求めましたが、専門家の意見に頼らざるを得ませんでした。結果的に、専門家の判断が、避難住民の混乱を招きました。
下村健一内閣審議官が混乱の数日間を、
「地震発生以来数日間、とにかく原発はこれからどうなるんだ! と言う質問に対して、それはもう、設計上ありません、と言う専門家。しかしそれが目の前で起こった・・・。この人たちの言う事は、何を信じたらいいんだ・・・という絶望感のようなものがありました」
と、悲痛な表情で振り返った。
東京電力から詳細情報が入らず、官邸の専門家も困っていました。
更に下村健一内閣審議官は続ける。
「事故現場に近い立場の人たちが、本当はどこまで知っていたのか? それが全部政府に共有されていたのか?」
下村健一内閣審議官の口元には、悔しさがにじんでいる。
もはや菅首相の手に負えない事態でした。
震災から約5ヶ月後、首相は辞任します。
事故が収束する兆しは見えません。
福島第一原発はの原子炉は、冷温停止しました。
しかし放射性物質の放出は続いています。
マイク・ウェイトマン博士はこの事故について、
「完全に制御されるまでには、長い年月がかかるでしょう・・・」
と、指摘します。
しかし、福島の事故をきっかけに世界は動き始めています。
大きな決断をした国もあります。
事故から2ヶ月後の2011年5月。ドイツは原子力からの脱却を決定し、再生可能エネルギーの推進に乗り出します。スイスとイタリアも続きました。
日本は電力の約3割を原子力に依存しています。
福島第一原発の停止を受け、首都圏では計画停電が行われました。
交代した野田首相は、原子力推進の意向を示しています。
福島第一原発の作業員たちや、放水に関わった消防隊員は、健康に異常がないかチェックを受けました。
放射線の影響は、いつ出るか分かりません。
小学校教師の堀内恵里子さんは、日本にとどまりました。現在、原発から80キロの距離に住んでいます。
児童を乗せたバスは津波を逃れ、全員無事でした。
福島第一原発の周辺では、事故の影響が続いています。
半径20キロ圏内は、現在も計画区域です。
農場は放棄されました。
農地は表土を4センチ削るなどの除染が必要です。
それまで農作物は育てられません。
十万人以上いるとされる避難住民たちが、自宅に戻れる日は、まだ先ですーーー。
原文・英語字幕・日本語字幕/ナショナル ジオグラフィック チャンネル/2012年4月15日
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