家族 ③
点滴が終わったのは午後10時。
それからこの日の為に用意してくれた旅館へと向かったが、これがまた遠い・・・。
元々、夕食は準備しなくてもいいと言っていたので、途中コンビニに寄って、チャーハンと飲み物を購入。母は妹の嫁ぎ先にお邪魔して、夕食をごちそうになったと言うし、父は全く食欲は無い、と言うので、さっさと旅館(ホテル)へ直行!
この旅館・・・いやいや立派なホテルは、帯広と札内川を隔てた隣の幕別町の高台にあって、眺望がいいらしいが、夜もドップリ更け、午後11時
展望露天風呂があると言うが、部屋に着くなり父はぐったりとふとんへ
私も遅い夕食を済ませ、毎日の薬を飲んで、とっとと就寝・・・
三人一緒の部屋に寝るのは、東日本大震災で停電が続いた時、豆炭コタツで3日間眠って以来。
そして翌朝・・・。
部屋から見える景色
敷地眼下には「幕別町ふるさと館」なる建物・・・そして、何故か矢印の所に、ケンケンパらしき円が描かれている
北海道はこの日も激暑・快晴
朝食を済ませ、いよいよ結婚式へ。
結婚式は帯広神社で。その後帯広市内のホテルで披露宴
父は案外元気に写真撮影(フイルムカメラ)に飛び回り、母と私はフルコースの食事を味わいながら、「なんだか暑い」とぼやき、ウーロン茶ばかり飲んでおりました
その夜はお腹も満腹で、ようやく旅行に来た気分を味わい、ホテル内をウロウロ・・・。
花嫁の母になった妹が、和服を着替え部屋に着いて、しばし談笑。
もちろん父の飛行機酔いに話題は集中
結局、我が家にはワン子がひとりぼっちなので、飛行機をキャンセルしてフェリーや列車で戻ると時間が掛かるという事で、予定通り飛行機に乗る事に・・・。
父は翌朝、薬局で「車酔い止め」を買って、なんとか我慢してもらうことにして、
家族4人で初めて、旅館の一つ部屋に宿泊するという記念すべき夜は更けたのであります
姪ちゃん、お幸せにネ
私は妹と一緒に遊んだり、過ごした記憶がほとんど無い。
私は幼稚園の頃まで病弱で、すぐに風邪を引いて熱を出す子供だったらしい。
当時、小さな病院が一つしかなく、母は私を背中にしょって歩いて病院まで行ったと言う。
小学校入学前、肺炎で危篤になって入院し、当時高価だったペニシリンが効いて助かったものの、胸骨の中心が大きく陥没し、拳骨のグーが入るくらいだった。
だから妹が生まれた事も覚えていないし、小学生の頃の記憶も全く無い。
私が中学になった頃、妹とは口喧嘩を良くしていたのを覚えている。
その都度、私は負けて、泣きべそをかき、牛小屋に閉じこもっていた。
とにかく頭が良く、口喧嘩で勝ったことは一度もない。
高校入学と同時に私は寮生活が始まり、その頃の妹との記憶もない。
高校卒業後は北海道の短大に進学し、再び寮生活となり、妹とは殆ど顔を合わせる機会がなくなった。
大学卒業後、県の仕事に就いたため、官舎生活が始まり、家に戻る機会も少なく、そのうちどういう訳か妹も北海道の短大に進学。・・・すれ違いが続く・・。
しかも妹は卒業と同時に、北海道の人と結婚
両親は猛反対したが、妹の巧みな話術と熱心さに根負けして、晴れてお嫁さんになった。
そしてこの時の結婚式には、両親は出席したが、私は出席していないので、一つ部屋で枕を並べるという機会は無かった。
妹とはすれ違いばかりで、中学・高校時代の制服姿を見たことがないし、もちろん登下校の様子も知らない。妹は高校は盛岡市内だったが、部活は私と同じ演劇部だったとかなり時を経てから知った。
だから幼い頃に二人で映った写真は一枚も無い。
酪農家だったので、家族でどこかへ旅行に出かけた記憶はないし、妹と一緒に出かけたと言う記憶も中学の頃の事が少し残っているだけ。
だから余計、その時の記憶が今も鮮明に残っている───。
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