蠢く痛み
農家の長男として生まれた私には、自分がこれから先、何をするべきか‥‥どんな人生を進むべきか、などと言う疑問は皆無だった。
たった一つ言われたのは、『両親を看取る』こと。
そして、その為には私が先に死なない事だった。
その曾祖父の言葉は、幼い私の中に、たった一つ残った言葉だ。
私の記憶は──唯一、南向きの縁側に並んで座り、穂を垂れた稲にやって来るスズメに、桜の木で出来た拍子木を叩き、スズメを追い払う事。
とても反響する拍子木を、曾祖父と並んで叩く。
そして私が小学生の時、曾祖父は亡くなった──。自宅で、老衰による大往生だった──。
それから月日が経ち、幾度、意識不明で入院したか‥‥。多分、人間はそれぞれに体力の限界があって、その際、無理して働くと、取り返しのつかない病になる。
しかし私の限界は他の人より容易くやって来て、直ぐ、倒れて意識を無くし、入院する羽目になる。
跡取りとして一人前になろうと努力して来たが、それは意図も簡単に体力的な限界が訪れ、結局、家族に迷惑ばかりかけて来た‥‥。
長い時は、1年半も入院生活が続いたり、汗っかきのせいで、1週間の入院は毎年のように繰り返された。
しかし不思議な事に、これまで幸運にも、致命的な病気は2度。
癌ではなく、急性肺炎と急性心不全。
「あなたのお子さんは心臓が強い」と、母が医師から言われたよ、と話してくれた。
そう──。
私には、どうしても成し遂げなければならない宿命があるのだ
『父と母の介護だ。』
そして死に水を取るのが私の宿命──。それが農家の長男に生まれた者としての役目。それが代々続く、先祖からの習わし。
所が何んと不甲斐ない有様だ。
5月25日、赤十字病院で手術についての説明があって、朝早く両親と3人で出かけた。
赤十字病院は、診察は午前のみ。全ての診療科で午前だけが診察で、午後は全て手術に充てられている。
物凄~く長い廊下の隅から端まで、8つの手術室が並んでいた。
父の病名は、「鼠径ヘルニア」で、通常の5センチの手術と腹腔鏡手術の2通り。
赤十字病院は県内で最も腹腔鏡手術による、「鼠径ヘルニア」の手術件数が多いので、この病院を選んだ。
実際、私は別の病院で、16年前、「胆嚢胆管結石」の全摘腹腔鏡手術を受け、次の日には退院したので、年齢的にも身体に負担の掛からない腹腔鏡手術をお願いした。
自宅で手術日の知らせが来るのを待っている間、母のリハビリの送迎は私がする事になった。
母のリハビリは27日。
そして今度は5月31日が私の心臓血管内科の受診日。
肝臓内科の精密血液検査も同時に行い、肝臓内科の診察は6月3日に──。金曜日の午後しか、肝臓内科の専門医がいないので、早く結果を知りたくてその日に設定。
通常の血液検査は、心臓血管内科で聞かされた。
物凄く気になっていた肝機能値は、大幅に減少
食事制限が功を奏した形となった。
体重も4kg減で、とりあえずホッとする。
そして手術日を知らせる電話──。
6月2日の午前中に入院、6月3日の昼前に麻酔して、そのまま手術室へ。
と言う日程を知らされた。
私としては、これまでこれ程頻繁に盛岡まで行く事がなく、既に、バテ始めていた。──この日、盛岡はジトジトと小雨が降る──。
肝臓内科の診察と重なった為、1週間延ばしてもらう事にした。
しかしまだ体力に余裕があると、6月2日、早朝、父が入院するので、再び3人で赤十字病院へ向かい、次の日の段取りを聞いて、午後、帰宅した。
この時点で、呼吸が荒くなって、お腹で息をする状態──つまりぐったりして、バテている、こりゃマズイ。
更にとうとう、何故か分からないが、右脚が痛い
そのまま手術当日の朝を迎えた──。
麻酔前までに家族は来るように言われていたが、どうする‥‥。
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