懦弱な宿因
6月3日、疲れ切った身体を起こせない──。
足の不自由な母にとって、利用できるのはタクシーのみ。要介護認定を受けているが、デイケアを受けていないので、急に病院までの足の確保は無理‥‥。
残る方法は、往復1万円程度のタクシーか‥‥。
その時‥‥、午前6時、玄関のチャイムが鳴った──。
母が出ると、妹がいた。
父が、手術日の決まった日、妹に電話して、「休み取れるなら来てけろな」と、連絡していたのだった。
結局、ヘバッていた私は麻酔開始までに起きられないので、着いたばかりの妹が、母を連れて赤十字病院へ向かう事になった。
本当は、一緒に暮らしている私も手術直前に立ち合いたかったのだが、医師の腕を信じて、私は午後になってようやく起きて、朝食も食べずに病院へ向かった──。
着いたのは午後1時過ぎ。
家族待合室には、母と妹がいて、私が着いた時には手術は終わり、麻酔が覚めるのを待って、病室に戻って来るとの事で、それまで長椅子に横になり、売店で買ったパンを食べ、瞬く間にウトウトしてしまった。
手術の最中の写真を見せられ、「非常に上手くいきましたよ」と。
病室に戻った父はまだボーっとしていたが、二、三言葉を交わし、病院をあとにした。
そして帰宅した途端、左脚の痛みに苦悶する事なる‥‥
右太腿全体の痛み 何故こんなにも痛いのか、理由が分からない
とにかく足を曲げれないので、側面の筋に沿って湿布をベタベタ貼る。
買い置きのポカリスエットを、ガブガブ飲んで‥‥
湿布は、もしもしの時の為に買い置きしてあるので、その日はそのまま痛みと疲れで、グッタリしたまま就寝。
翌日から蠢く痛みとの、追いかけっこが始まった
一夜明け、太腿の痛みは正面に移動。病院に行く事も考えたが、肉離れや疲労骨折でもなければ、結局、湿布を貼る事しか出来ない。
低周波治療が出来ればいいのだが、出来ない物を欲しても無駄。
6月5日の退院には、もはや車の運転が出来ない程痛いので、またまた妹と母が、病院まで迎えに行った‥‥。
だらしない 不甲斐ない 全くの役立たず
イザと言う時、一つも足しにならない──
足は痛いし、心は更に痛い──
足の痛みは、お尻から太腿の裏へ移り、次の日は膝の周囲に移り、更にフクラハギに移り、それからまた太腿の横に移り‥‥それと同時に、痛みの度合いも少しずつ小さくなり、歩けるように‥‥
やがて痛みの大本営が現れた。
最も痛めた所は、膝の裏の2本の太い筋の外側の筋。
太もも裏側の「ハムストリングス」と言う部位の、大腿屈筋群の中の「半腱様筋」と言う太い筋肉。
ここから派生した痛みが左脚全体に響き、約10日間、蠢く痛みとなって襲って来たのだった。
家に戻った父は、至って元気。
1週間は無理しないように、と言われたらしく、それでも以前と変わらない日常を送っている。
まだ自分で車は運転できないが、食事も散歩も、普通に戻った。
妹は、昨日、「そんなに有給取れないから、帰るわ」と、颯爽と帰って行った。
考えれば──、足の痛みは置いといて、何故こんなにもスケジュールを詰め込んでしまったのか──と言う反省点。
日程を更にズラす事も出来た、と今になって思った。
そもそも私のこれまでの習慣と、体力からすれば、週に2回までが、行動の限界と分かっていたはずなのに、予定をギューっと詰め込み過ぎた。
見た目、外観はデカいし、体格もいいので、丈夫そうに見えるが、残念ながら、カラータイマーが切れる時間は相当早いのだ
そして、復活するにも時間が掛かる、実に厄介な体質である‥‥‥‥
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