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2021年6月19日 (土)

再燃

ようやく梅雨に入り、大陸からの高気圧の狭間で、少し過ごしやすい日になりました。

 

今服用しているサインバルタの後発医薬品が薬価収載されたという記事を目にした。

今は1日3カプセル飲んでいるが、

今日の診察で、2カプセルに減り、

代わって暫く飲んでいなかったパキシルが復帰となりました。

理由は、予期不安と視線恐怖が復活して来たため。

 

パキシルを停止してサインバルタにした効果は現れたものの、再び指摘恐怖が頭に擡げられて、行動が極端に出来なくなってしまった。

これまで順調に減薬の効果が現れていたのに、春先以降、他人の視線や口元が気になり始めた。

 

この心理状態は、地元のスーパーで買い物する時に露骨に出現する。

「セルフレジ」になってから、レジで並ぶのが怖くなった。自分の後ろに並んでいる人が『もたもたすんな』と今にでも言われるのではないかと脅えてしまう。

自分より高齢のお年寄りが難なくセルフレジで会計を済ませているのを見ると、ゾっとする。
これは今や当たり前の事なのか?
居たたまれず、会計を止め、最後尾に並び直してしまう…

 

所がこの追い詰められる心理は、盛岡市内のスーパーでは起らない。

例え後ろに並んで待つ人がいようと、自分のペースで会計を済ます事が出来る。

しかし地元のスーパーでは、物言わぬ視線の圧を感じる。

地元のコンビニでも同じ様に、袋に詰めるをモタモタしていると、急かされているような圧迫感を感じてしまう。

それも盛岡市内のコンビニでは全く無い。

 

 

無論、直接何かを言われた事はなく、自分の思い過ごしなのだが・・・

何か言われるのではないか――怒鳴られるのではないか――

そんな恐怖心が芽生え、殆どの買い物は盛岡市内で行って来た。

 

何故、そう思うのか??

その理由もハッキリと分かっている。

分っているからこそ、未だにそれを克服出来ていないのだ。

 

 

とにかく何かヘマをしたり、失敗した時は謝れば良い。

大概はそれで済む事なのだが、

「謝る」と言う誰でも出来る事が、自分には出来ない。

失敗した時や間違いを起こした時、謝るという事を私は誰からも教えてもらっていないのだ。

『ごめんなさい』の言葉が出て来ない。

例えば軽く人とぶつかった時でも、咄嗟に『すいません』と出て来ない。ただ頭を小さく下げるだけ。

すると相手が『ごめんなさい』と言ってくれて初めて、この時は『すいません』と言う言葉なのだと気づく。

しかもそういう手順がある事を知ったのは、随分大人になり、大学病院の精神科に通い始めてから・・・。

 

それからは意識して自分から謝るようにしているが、それでもやはり咄嗟に、反射的には言えない。

一旦、頭の中で場面と言葉の関連付けから引っ張り出して来ないと、自然には出て来ない。

だから、何か注意されると、一瞬思考が止まり、大急ぎで言葉選びを実行するのだ。

実にまどろっこしい。

がしかし、これには訓練が必要だったものの、まだ咄嗟に言葉は出ない。

 

親や学校や友人や親類。

誰も、こういう時は『すいません』『ごめんなさい』と謝るのよ――と教えてくれなかった。

だからその知識が無かった。

そして今では、いつ注意されるか・・・いつ怒鳴られるか・・・と言う恐怖と戦い、咄嗟に謝る言葉が出ない事に、自分に対して怒りさえ覚える。

 

 

結果的に、パキシルが復活して、又最初からやり直す事になった。

失敗したり間違ったり不用意だったり・・・人生には謝る場面が必ずあるものだが、それは小さい頃から大人に教えられて初めて身につくものであって、

もし誰からも教えられて来なかったら、私の様に、あとは自分で訓練するしかない。

しかし得てして、それは「ひきこもり」や「消極性」や「愛想が悪い」などと揶揄され毛嫌いされがち。

それでも私は訓練すれば、例え年月が掛かろうとも身につくはずだと信じている。

 

その日がいつ来るか分からないが、それまでは何をするにも、失敗しないように。

怒られないように。

怒鳴られないように。

注意深く。

 

 

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