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カテゴリー「エピソード~記憶の断片」の記事

2015年4月24日 (金)

桜より脳裏に憶う、朽果てた橋

暖かいらしい・・・。

それもそのはず、今日は今年最高の気温だったとか。
しかし風邪引きの今は、ちょっと寒気、いたたまれない程の眠気に見舞われている

風邪を引くと、必ず激しい眠気が襲い、寝ても、寝ても、尚眠い
世は早くもGWに入ろうと言うのに、まだ季節の変化に身体が追いついていない・・・・・。


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盛岡の石割桜は既に満開。弘前城公園の桜も開花して、遅ればせながら雫石川園地の桜もようやく開花

しかし小岩井の桜はまだ蕾らしいが・・・。

いつの間に、誰が植えたか知らないが、ここが公園と呼ばれるようになって、初めて間近で桜の開花を見た。
只今7分咲きだそうだが、この並木、延々2キロ以上続く・・・。
ただ、芝生と言うか、牧草というか、下草の伸びが遅いし、川から吹く風が冷たいので、のんびり弁当を広げるというまでには至っていない。

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前回より相当ダムの水かさが増えた。


元々、ここには貯木場があった。

駅の南口には、貨車が待機する操車場と幾つもの線路が縦横に走っていた。

上流で切り出された材木が、ここまで川舟に乗せられやってきて、ここから貨車に積み込まれて出て行った。

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そして今は満杯の水で満たされているこの場所に、おんぼろの木造の橋が架かっていた・・・。


ちょうど対岸に当たる場所に、おじいちゃんとおばあちゃんの家があって、私は土曜日になると、家から歩いてきて、駅裏の土手を歩き、ボロボロの橋を渡り、祖父母の家に泊まりに行っていた。


家では両親と一緒に寝た記憶がなく、唯一、祖父母の実家に行っては、間に入って寝入るのが楽しみだった。
 


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だが、橋は無くなり、

祖父母の家はダムの湖底に沈んだ。


どれくらいの人が「あの橋」の事を覚えているだろうか?


地方から人が消えるらしい・・・・・。

過疎に疲弊してしまうらしい・・・・・。

大都市は今以上に便利になるとか・・・・・。

外国人観光客が増加しているとか・・・・・。

行列の出来る店ばかりあるらしい・・・・・、紹介される店はどれもこれも繁盛らしい。





豊かな時代になった、そして昭和の世代は、間もなく誰もいなくなる。


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2013年6月 2日 (日)

数字を覚えられない「失数症」

ブラッド・ピットが 「人の顔を覚えられない」相貌失認という症状を患っていると告白したと言うが、
人にはそれぞれ不得手というのがある。

私の場合は、今では不得手・不得意ばかりになってしまい、自慢出来る事は何もない。

その最たるものが、数字を覚えられない「失数症」という、実に困った症状である。
特に誕生日に関しては、自分の誕生日は覚えているものの、その他の人の誕生日が全く覚えられない。
両親や親類縁者、姪や甥、有名人、芸能人に至るまで、どうしても覚えられない。

聞いても忘れるし、紙に書いても、どの紙に書いたかを忘れてしまう。
自宅の電話番号も、携帯の番号も、覚えられない。だから部屋の壁にはいろいろな数字を書いた紙を貼っている。
とにかくすぐ目に付くところに無いと、書いた場所を忘れるし、メモする事が増えると、古いメモ帳の置いた場所さえ忘れてしまう・・・。




高校時代には付き合っていた彼女の誕生日を忘れ、怒られて、別れを告げられ・・・。
誕生日だけでなく、年号とか金額とか、数字は特に覚えられない。
小学校で習う九九や、足し算、引き算さえ、紙に書いたり、指で数えたり・・・・結局、桁が多くなるともはや全滅
かくして小学校の時には算数で0点を取ってしまった事も。


こういう症状を、どうやら「失数症」と言うらしい。



何故こんな事になってしまったのか
原因らしき事は分かっているのだ。

誕生日を覚えられないそもそもの原因は───


私は小学校卒業まで、自分の誕生日を間違って教えられた事にある。
そもそも小学校の通信簿には、10月21日と記載されていたし、何かと頻繁にお世話になった病院で見せる保険証にも10月21日と記載されていた。

そして毎年恒例のお誕生日会も、私は自宅に同級生を呼んで、10月21日に誕生日会を開いていた。
更に、小学校の卒業証書にも同じ日付が書かれている。


しかーし
中学校への入学願書で、初めて自分の誕生日が10月22日だと知って、あらまぁ・・・ビックリ
私が信じて来たこれまでの誕生日は、一体なに
なんで一日間違っていたのか?
明治時代や、終戦後のゴタゴタの時期でもないのに、どうして戸籍から書き写す時、間違ったのか?
しかもそれが延々、小学校卒業まで続いてしまった訳で、閏年生まれでもないのに、これは誰の責任?


なんてな事はほとんど考えもせず、
「こりゃすげぇー!」と驚いて、この話は簡単に終わってしまったが・・・
私の中では、もしや10月23日がほんとの本当ではないか・・・? という疑念が今も渦巻いている

どうやらそれ以降、元々苦手だった数字が、とことん嫌いになってしまい、覚えようと努力すれども、全く覚えられないという最悪の状態を固持したまま現在に至る訳だ。
戸籍原本が正しい───というのは、実は誰にも確かめられないのでは・・・
当の本人は覚えてないし、出生届も、役所の原本も最初は手書きだし、入力間違いや、書き込み間違いがひょっとしたらあるかもしれない。

両親にこの事態を聞いても、全く覚えていないようで、今となっては遙か夢の中の出来事のようでもある。
従って、暗算なんてとんでもない神業であり、簡単な計算も電卓依存で、難しい計算には一切関わり合いたくござんせん
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しかし、当時は体育の方が苦手で、

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棒(竹)登りとロープ登りは、クラスで私一人、出来なかった

なので、小学校時代の通信簿は体育が6年間毎回2(5段階評価で)・・・、中学時代は運動会をズル休みしてました。
結局、努力しても、出来ないものは出来ない という事でしょうか・・・







2012年9月23日 (日)

家族 ③

点滴が終わったのは午後10時。
それからこの日の為に用意してくれた旅館へと向かったが、これがまた遠い・・・。
元々、夕食は準備しなくてもいいと言っていたので、途中コンビニに寄って、チャーハンと飲み物を購入。母は妹の嫁ぎ先にお邪魔して、夕食をごちそうになったと言うし、父は全く食欲は無い、と言うので、さっさと旅館(ホテル)へ直行!

この旅館・・・いやいや立派なホテルは、帯広と札内川を隔てた隣の幕別町の高台にあって、眺望がいいらしいが、夜もドップリ更け、午後11時
展望露天風呂があると言うが、部屋に着くなり父はぐったりとふとんへ

私も遅い夕食を済ませ、毎日の薬を飲んで、とっとと就寝・・・
三人一緒の部屋に寝るのは、東日本大震災で停電が続いた時、豆炭コタツで3日間眠って以来。



そして翌朝・・・。

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部屋から見える景色
敷地眼下には「幕別町ふるさと館」なる建物・・・そして、何故か矢印の所に、ケンケンパらしき円が描かれている


北海道はこの日も激暑・快晴
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朝食を済ませ、いよいよ結婚式へ。
結婚式は帯広神社で。その後帯広市内のホテルで披露宴
父は案外元気に写真撮影(フイルムカメラ)に飛び回り、母と私はフルコースの食事を味わいながら、「なんだか暑い」とぼやき、ウーロン茶ばかり飲んでおりました


その夜はお腹も満腹で、ようやく旅行に来た気分を味わい、ホテル内をウロウロ・・・。
花嫁の母になった妹が、和服を着替え部屋に着いて、しばし談笑。
もちろん父の飛行機酔いに話題は集中
結局、我が家にはワン子がひとりぼっちなので、飛行機をキャンセルしてフェリーや列車で戻ると時間が掛かるという事で、予定通り飛行機に乗る事に・・・。

父は翌朝、薬局で「車酔い止め」を買って、なんとか我慢してもらうことにして、
家族4人で初めて、旅館の一つ部屋に宿泊するという記念すべき夜は更けたのであります
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姪ちゃん、お幸せにネ


私は妹と一緒に遊んだり、過ごした記憶がほとんど無い。
私は幼稚園の頃まで病弱で、すぐに風邪を引いて熱を出す子供だったらしい。
当時、小さな病院が一つしかなく、母は私を背中にしょって歩いて病院まで行ったと言う。

小学校入学前、肺炎で危篤になって入院し、当時高価だったペニシリンが効いて助かったものの、胸骨の中心が大きく陥没し、拳骨のグーが入るくらいだった。

だから妹が生まれた事も覚えていないし、小学生の頃の記憶も全く無い。
私が中学になった頃、妹とは口喧嘩を良くしていたのを覚えている。
その都度、私は負けて、泣きべそをかき、牛小屋に閉じこもっていた。
とにかく頭が良く、口喧嘩で勝ったことは一度もない。


高校入学と同時に私は寮生活が始まり、その頃の妹との記憶もない。
高校卒業後は北海道の短大に進学し、再び寮生活となり、妹とは殆ど顔を合わせる機会がなくなった。
大学卒業後、県の仕事に就いたため、官舎生活が始まり、家に戻る機会も少なく、そのうちどういう訳か妹も北海道の短大に進学。・・・すれ違いが続く・・。

しかも妹は卒業と同時に、北海道の人と結婚
両親は猛反対したが、妹の巧みな話術と熱心さに根負けして、晴れてお嫁さんになった。
そしてこの時の結婚式には、両親は出席したが、私は出席していないので、一つ部屋で枕を並べるという機会は無かった。


妹とはすれ違いばかりで、中学・高校時代の制服姿を見たことがないし、もちろん登下校の様子も知らない。妹は高校は盛岡市内だったが、部活は私と同じ演劇部だったとかなり時を経てから知った。
だから幼い頃に二人で映った写真は一枚も無い。
酪農家だったので、家族でどこかへ旅行に出かけた記憶はないし、妹と一緒に出かけたと言う記憶も中学の頃の事が少し残っているだけ。


だから余計、その時の記憶が今も鮮明に残っている───。

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2012年9月21日 (金)

家族 ②

暑さの厳しさが続いていた仙台空港・・・だだ広っろい割に混雑は無かったが、全面ガラス張りという事もあり、ただひたすら汗がでる

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AIR DOのボーイング737-500型の機内から・・・

その後は全て順調で、千歳に到着後、待っていてくれた妹の運転する車で、一路、道東自動車道に乗り、帯広を目指したのだが・・・・・
私は既に疲れて、空港を出発後すぐ寝てしまいましたが・・・。


途中で「グエェェーー!」という声で目を覚ますと、占冠PAで父が盛んにゲロしていた・・・
「おいおい、どうしただあ?」
どうやら千歳を出てすぐに具合が悪くなり、高速道に入った途端、気持ちが悪いと言い、ビニールにゲロしてたようだ。
車酔い・・・まさか?
と聞いて見ると、どうやら飛行機酔いしたみたいで
、車に乗って我慢しきれず、「ゲエェゲエェ」を始めたとの事。

周囲は日が暮れて、ここで救急車を呼ぼうか?と妹、母、私で相談したが、急遽予定を変更して、父には吐き気を続けてもらいながら、妹の知り合いの救急病院へ向かう事にした。


いくら何でも「酔い止め、吐き気止め」の薬は持っていないので、とりあえずポカリスエットを少し飲ませ、持ち歩いている解熱・鎮痛剤を飲ませ、自販機で冷えたペットボトルを買って、頭の後ろを冷やす事に。

トマムリゾートの高層ホテルの明かりを左手に見ながら、一路、帯広へ。


それから公立の救急病院へ直行!
父はフラフラで歩けないので、車椅子で病院内へ。
あいにく父は保険証を持っていないので、とりあえず100%として1万円を支払い、診察を。
当番医は外科の先生で、500mlの点滴に吐き気止めを混ぜて、ベッドで点滴開始・・・。

食欲は全くないと言う父は、点滴を始めたら、寝息を立てて眠ってしまいました。
よほど辛かったのでしょう・・・


帯広も半端無く暑く、病院内は冷房もなく、廊下はムシムシ。しかし診察室と処置室は冷房が入っていて、ようやく私もここで一息。
こうして長い長い一日は更けようとしていた・・・。
更に波乱の旅が続く・・・・・

次の後編へつづく。




2012年9月19日 (水)

家族 ①

生まれてから今日まで、家族が揃って宿泊旅行などした事がなかった───。
おそらく普通なら一泊でどこかへ出かける事は、とても簡単な事なのかもしれないが、我が家ではそういうチャンスが巡って来なかった。


それが姪の結婚式・・・というセレモニーに出向くことで、図らずも初めて家族が一つ宿の下、同じ部屋で枕を並べて眠るという快挙が達成された。


そーんな訳で、9月14日から16日、炎天下の真夏が続く中、我が家では北海道まで行って帰って来たのだ。


これが最初で最後の家族旅行になるかもしれないが、
妹の姪の結婚式に出席するという旅は、新幹線でスタート
こまちに乗って一路、仙台へ。そこから電車を乗り継ぎ仙台空港駅へ・・・。
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ペースメーカーの私は、人生初のボディタッチ検査を受けた。
検査の人が女性だったので、おっとっと・・・

AIR DOのボーイング737の柄物機体でした
搭乗口は一番端っこ・・・暑がりの私と、足の悪い母には長い通路でした
父はこの時、まだ平気だったのですが・・・・・


私は過去に三沢空港からYS-11に乗った経験が何度かあったが、父と母は飛行機初体験
今回は時間的な都合で、いわて花巻空港ではなく、往きは仙台空港からとなったが、さすがに花巻と違って空港が広~~い

中編へつづく




2012年3月 6日 (火)

風化

今の子供たちは幸せなのかもしれない。

私の子供の頃と違って、物は豊富にあり、今回の災禍も誰かが後生に伝えてくれるだろうから。


去年の東日本大震災と太平洋岸巨大津波、原発事故・・・今年の豪雪と、自然災害の猛威に晒されながらも、過去の教訓に従った人達と、その教えを守った子供たちは、難を逃れた。
説明しなくても、たくさんの映像記録が残されもした。

しかしそれもやがて風化し、伝承は途絶え、同じような惨禍を繰り返すとしたら?


また何十年後には、日本人は再び忘れてしまうのだろうか?


記憶は楽しい事によって書き換えられ、忘れ去られ、風化してゆく。
今年の豪雪は「平成18年豪雪」に匹敵する大雪と言われているが、もう人々は忘れている・・・・・。
これより更にひどい、「昭和38年豪雪」があった事を・・・
私と同じ年代の人は知っているはずだ。

「平成18年豪雪」の死者・行方不明者は152名、負傷者2136名、倒壊家屋4713棟だった。
しかし私が小学生の時に体験した、「昭和38年豪雪」では死者228名、倒壊家屋6005棟になった。


我が家は大正時代に建てられた、典型的な茅葺きの大屋根の家で、「昭和38年豪雪」の時は屋根から落ちた雪で1階部分が埋まった。
玄関から雪のトンネルを掘って、出入りしていたし、3階の窓から雪にダイビングしても怪我もせず、玄関から出るより早いので、毎朝、3階から飛び降りて小学校に通っていた。

当然、道路の雪かきなどされる事もなかったので、我が家には馬が一頭いて、その馬に馬そりを引かせて買い物に出かけていた。
馬そりのそり部分には鉄板が打ち付けられていて、雪の上でも、土の上でも平気で引っ張っていた・・・。


家の庭には太い送電線用の柱があって、庭の上を6本の高圧電線が走っていた。
当時は、送電線は出来るだけ真ッすぐ引くために、農家の庭に電線が通っているのは当たり前。

大人達が総出で、庭の雪かきをすると、こんもりとした丘になって、小学生の私はスキーをして遊んでいた。

大屋根の茅葺き屋根の家は、曾祖父が部落の人の力を借りて建て、その大黒柱は桜の大木をそのまま使い、その胴回りは18 寸角(約55センチ)で、両手が回らないくらい太い。
その他の部材も全て欅の大木の10寸角(約30センチ)の柱と梁(はり)が使われていた。

曾祖父はその更に祖父から、自然に逆らってはならぬと言われ、それは私の父にも伝えられたと言う。
今の家は、その大正時代の古家に使われていた木材をそのまま使っている。




母が言うには、
私は曾祖父と南向きの縁側に座り、目の前に広がる田んぼの稲穂に群がるスズメに、
拍子木を打ち鳴らし、追い払っていたらしい。

そして曾祖父が話す昔話を聞いては、その話を覚え、曾祖父に話して聞かせていたと言う。

私が幼稚園の頃の話・・・・。
確かに柱には拍子木がいつもぶら下がっていたが、昔話の事は覚えていない。


当然、我が家には曾祖父と一緒に映った写真など一枚もないし、
自分の小さい頃の写真も一枚も無い。
あるのは小学校の入学式の写真、一枚。

私は小学校の時どんな顔をしていたのか?
中学生の時、どんな顔をしていたのか、写真は一枚も無いので分からない。


しかしそれでも私は覚えている。

豪雪の事、十勝沖地震の時に小学校の校庭に地割れが出来た事、日本海中部地震で津波が発生し、たまたま男鹿半島に遠足に来ていた子供たち100人が津波にさらわれ、命を落とした事、秋田駒ヶ岳が噴火した事、全日空機と自衛隊機が空中衝突した夏の日の事、母の実家がダムに沈んだ日の事・・・。

何もかも鮮明に覚えている。


そして曾祖父も母も父も、その教訓の数々を私に言い伝えてくれた事を、今も覚えている。


年老いた人には、言い残す責任があるのだ。
子供や孫に、伝えなくてはならない事がたくさんあるのだ。


何故、誰もが直ぐに忘れる
何故、子や孫のいる人は、伝えないのか

どんなにテクノロジーが進化しても、ミスは起こる。
ヒューマンエラーという人為的ミスは決して避けられない。
人間のためのテクノロジーは、結局、人間でなければ制御出来ない。
そこにエラーが起こる。

そのヒューマンエラーに立ち向かえるのは、先人の知恵と教訓しかない。
それを忘れたら、原発事故のような重大な設計エラーが起こると言う事を決して忘れてはならない。




もしかしたら原発事故で故郷を追われた子供たちは、一生涯、この事を忘れないだろう。
しかし忘れないだけではダメだ。
次の代に言い伝えるのだ・・・決して同じ災禍を繰り返さない為に、君たちが言い伝えるのだ。
その責任は重い。
この苦難を一生覚えている事は、苦痛にもなろう・・・だが、風化してはならない。今、経験している事を後生に残せるのは、今の子供たちしかいないのだから。



2011年12月 5日 (月)

涙丘・・・ルーツを求めて

みなさん、こんにちは
昨日は北からの突風が吹き荒れる日で、ここ連日、日照不足に陥っていますが、凍結・スリップには十分気をつけましょう

さて日頃より、不思議に思っていた事を、ちょいと書きましょう・・・。

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恥ずかしながら、お初にお目に掛かります、ブログの主で御座います

ここ数年、自分の目について少々不思議を発見。
あまり深く考えて来なかったのですが、
どうやら自分の目頭・・・変な事に気づきました647563


写真で見ても分かる通り、目頭の部分のピンク色の部分・・・「涙丘」と呼ぶのですが、
この部分が異常に大きく見える事に気づきました

日本人の大多数は、蒙古ヒダと言われるように、目頭の部分が下へ下がっている人が多いのですが、自分の目頭は横へまっすぐ切り込んでいて、「涙丘」が一段と大きく見えます。


例えば大好きな前田亜季ちゃんは、日本の女優を代表する「蒙古ヒダ-巻き込み目頭」で有名です。

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前田亜季ちゃん。


目が大きい人でも、「涙丘」が見えない人もいます。
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香椎由宇ちゃん。


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貫地屋しおりちゃん。


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平野綾ちゃん。


まぁ、他にもたくさんいますが、殆どが片方だけ少し見えたり、全く見えなかったり。
芸能人女性で探せど、探せど、自分のようなハッキリくっきり「涙丘」の見える人がいません。

当然の事ながら目頭切開などの整形はしてませんし、そもそも岩手の山の奥に暮らしていて、ご先祖様も同じ地域の人なので、他県から混じって来たという記録も無いし・・・。

しかも海まで太平洋は2時間。日本海なら2時間半も掛かる場所。
昔は新幹線も車もなく、大陸から移り住んだと言う事も無いようですし、自分の目頭のルーツはどこか647563_2
鏡を見るたびに、段々気になって来たのです。




「涙丘」がハッキリ見えるのは西欧人に多いらしいのですが、
我が家には異人の血統は無いと思われるので、どこでどう間違って、こういう目になったのか・・・。

両親は、二人とも普通で、曾祖父がやはり自分に近い目頭をしていました。


そこで女性芸能人の目頭を徹底的に探して見ました。←(男性は興味がないので)

昨今、とかく目頭切開の整形芸能人の話題が絶えないので、
見分けがどうかと思ったものの、
いくら整形で目頭切開しても、「涙丘」がはっきり見えない人はたくさんいます。

しかも目頭切開は真横に施術すると、膨らんでしまうため、下方に切り込みを入れる。
そうすると、ピンク色の「涙丘」が、あまり見えないという点で気づきます。

もともと「涙丘」が目頭の奥にある人は、目頭切開しても、自分のように大きく見えません。
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一重瞼や奥二重を形成しても、「涙丘」は見えなかったり、粘膜が被さって綺麗なピンク色には見えません。
失敗すると、一段と奇妙な形になったり・・・
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何とか「涙丘」は見えるものの、自分ほどハッキリした形にはなりません。
肉球のようになっている人は、どこにいるのでしょうか・・・647563




そこで探して見ました・・・・・Photo_2


では早速、「涙丘」ランキングをカウントダウン

まずはくりくり目なのに、「涙丘」が見えない女性芸能人から



芸能人、あいうえお順に、探して見た所、こんな上位になりました。

ここで気づいた事が


佐々木希ちゃんと、加藤夏希ちゃんは秋田県出身。
中山忍ちゃんの両親も秋田に住んでいます。
加藤ローサちゃんは鹿児島県鹿児島市出身。
仲間由紀恵ちゃんは沖縄県浦添市出身。
他のご両親の先祖はどこなのか分かりませんが、どうやらこの出身地にルーツがあるのではないかと・・・


■説によれば・・・・
蒙古ひだ(巻き込み目頭)とは、私たちモンゴロイド(黄色人種のことで、 アフリカを発祥とする人類の祖先を区分すると日本人はこれに属します。)に特徴的な目の形態で、上まぶたの内側から内眼角(目頭部分)にかけて覆い被さっている膜状になった皮膚のことで、西洋人にはないらしい。

つまりハーフでは巻き込み目頭にはならないが、涙丘が見えるとも限らないという事か647563_2


じゃぁ、岩手の山奥から出た事の無い自分が、西洋人のような目になったのか。
突然変異・・・か

と思いきや、実は妹も同じで、菅野美穂そっくり
菅野美穂がデビューした時、あまりにも似ていたので、ビックリ驚嘆したほど。

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デビュー間もない頃は、「えぇーっ!! 菅野美穂は親戚か」と、
そりゃもう大騒ぎさ・・・ 台風並みの衝撃だった。



結局、ルーツ探しは、結論を出せなかったものの、秋田と沖縄周辺に生息していたようなので、奥羽山脈を越えて、秋田と交流があったのかな。


そして男で、涙丘芸能人を見つけました


じゃーん

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沢村一樹、おぬしも我々の仲間だったのか



訪問したらポチっとしてね

2010年12月 2日 (木)

鉈事件

それは小学生の時の鉈(ナタ)事件でしょうねぇ。

当時は時代劇ブームで、特に忍者ブームだった。そんな時代の波に乗ってよせばいいのにチャンパラごっこがMyブームとなり、何故か鉈を振り回しては刀裁きのマネをしていた訳だ。

そこで起こったのが鉈による自爆事件

近所にあったUntitledひまわり畑に行って、かっこ良く鉈でUntitledひまわりを切って遊んでいたら、たまたま空振りして、そのまま鉈の後ろの角が自分の膝にサクッと刺さった

Nata01a03 ジーパンの上からだったが、あっと言う間にシーパンは赤く染まり、私は慌てて家に戻って、ジーパンを脱ぐと・・・

何故か血が出ていない。恐る恐る膝を曲げて見ると、穴がパックリ

こりゃ皿が割れたと内心大騒ぎするも、家族には言えず、手ぬぐいで縛ったままにしていたら、そのまま治ってしまった

流れた血は最初だけで、あとは全く血も出ず、痛くもなく、腫れる事もなく・・・そのまま現在に至る。

膝にはくっきりと傷跡が残っているが、全く問題ないと言う、実にどうでもいい話。

当時は大事件だった訳だが、まぁそんなもんです

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2009年5月26日 (火)

エピソードⅥ 小説

ありきたりな話だが、私にも本を読んでいた時があり、

こざかしい小説なんぞ書いて挑んでいた時期があった。

いつから私は、本を読まなくなったのだろう・・・

恐らく今の病気が酷くなった時からだと思うが、

とにかく文章に集中出来なくなった事は間違いない。

そうなる前まで、実は小説書きに没頭していた頃がある。

ノア流星群の神々-Palette

中央の2枚のテレカは、その当時応募していたパレットノベル大賞で、

確か2次か3次予選を通過した人だけが貰えたオリジナルのテレホンカード。

佳作の一歩手前まで行ったが、さすがに入賞は出来なかった。

世の中そんなに甘くはないのだよ、ワトソン君

入選作を読むと、やっぱり恋愛と死、イジメと死、虐待、レイプ等、

刺激的な内容のものばかりが賞を取っていて、私が書いていたような

ジュブナイル小説本は、もはや時代遅れだった。

さぁ、ここからだよ。

よくもまぁ、最後の章になるとどんどんヒロインや主人公が死んでゆく

世の中の若者があんなに簡単に死んだら、若者が居なくなるじゃないか・・・

頼むから風邪をこじらせただけで殺さないでくれよ!

急に不治の病にならないでくれよ、若いんだからさ!

しかし次から次へと、病気で死んで・・・・・事故で死んで・・・・・自殺して・・・・・ジ・エンド。

実に短絡な小説が多い本

そこで考えたわけだ。

何を?って、真っ向勝負の江川卓のように(古い)、直球勝負!打たれたら、素直に負けを認めよう。

そこで深く考えた。

根っからの推理小説好きだった私は、誰もが驚くようなトリックで、

前代未聞の話を創り上げた。

それが「消えた新幹線」と言う話0

昭和64年(平成元年)の事だった。

書いた当時、私はおよそ10ヶ月もの長い入院生活をしていた。

ワープロを病室へ持ち込み、小説を書き始めた。

その前に、この小説はどうしても400字詰め原稿用紙350枚にする必要があったため、

念入りにフローチャートを作った。

設定は奇抜であればある程、関心を惹き付けるので、

畳みかけるように、犯人側は想像を逸脱した仕掛けで、警察に挑む。

だから長編でなければならなかった。


☆内容はこんな感じである……。

博多発東京行きの最終新幹線が、西明石駅を通過して間もなく、

走行中の線路上から乗客1000人余と16両編成まるごと忽然と姿を消す。

直ぐ、付近の全ての新幹線を最寄り駅に停車させ、保線員が徒歩と車で

現場へ向かった。

新幹線総合司令所でも同時刻、やはり運行パネルから表示が消えた。

最も昼の短い2月の霧雨の降る寒い夕刻の出来事だった。

16両の新幹線と約1000人の乗員乗客は一体どこへ消えたのか。

どうすればそんな事が可能なのか。

同時刻、兵庫県内の途ある交番に電話が掛かった。

電話の声は明らかにコンピューターで合成された声だった。

その声は交番巡査に不可思議な文字を書かせ、直ぐ兵庫県警本部へ行けと命令する。

既に県警本部は、消えた新幹線の事で右往左往状態。

巡査が怪しい声からのメモを伝えると、そのメモを理解出来る者がいなかった。

しかしここで主人公の登場!彼はそのメモが犯人からの通信手段の方法だと察した。

しかもその手段は尋常な常識を遥かに越えた方法だった。

こうして捜査陣と犯人との息づまる戦いが始まった──


まぁ、こんな感じだけどね。

気持ちとしては、ある程度強引でも、とにかくマジックの種証しみたく、

ああ何んだ、と落胆させてはいけない。

マジックなら素っ裸で鳩を出せるか? というくらい徹底的に謎にする。

そして書き上げた小説を2部コピーし、1部を九州の途ある県の小説公募へ。

もう一つは有名出版社の有名な小説公募にそれぞれ送った。

結果は、九州に送った方は、長編部門で最優秀賞トロフィー

有名出版社の方は、1次予選を通過したのみだった。こちらの方で大賞を獲ったのは、

かねてよりこの出版社と関わりがあった、とある大学の先生だった。

九州に送った方は、本にしたいと言って来たが、それは丁寧にお断りをした。

何故なら、この小説を書いてみて、もう書けないと思ったし、

私利私欲に走る出版社に踊らされたくなかった・・・・・と言えば綺麗に聞こえるが、

結局私にはそれだけしか才能がなかったのだ。

人は誰でも一度は小説家になれる。

エッセイは、他の誰もまねできない己だけが書ける唯一の小説だからだ。

だから卓越したアイデアやトリックをふんだんに駆使出来る作家は、

自小説をなかなか書かないものである。

まあそういう事らしい。


私の場合、小説を読みたくないと言うのではない。

例えば小説を読むとなると、その世界に入り込んでしまうものだが、

そうなると音に敏感な私は、小さな物音でも、気になってしまい、

時にはビクッと仰天する事がある。

玄関のチャイムやドアの音、廊下の足音等々、気になって仕方がない。

外へ出ても、話声がするとそっちの方が気になる。

人の動き、大小、高低、とにかく気になって本に集中する事が出来ないのだ。

先生によれば、これが通常生活を困難にしているらしい。

そしてこの症状が、身体表現性障害の典型だと言う。

ただそんな私でも、心地良く聞こえる音がある。

それは子供の声赤ちゃん2人目と女性の声。

特に高い声を聞くと安心する。

逆に男の低い声は酷く苦手だメガホン

脅されているような威圧感がある。

何故こんなになってしまったのだろう?

もっと読みたい本がたくさんあるのに……

ちなみに一番最近読んだ本(かどうかは不明)は、泰葉の「開運離婚」です。

(それでも1年以上前ですね)

2009年3月11日 (水)

エピソードⅣ 感染

1985年11月「スケバン刑事II 少女鉄仮面伝説」がフジテレビで始まった。

当時、当地ではフジテレビがネットしていなかった為、この番組も見ることは出来なかった。

当然、流行った「夕焼けニャンニャン~ おニャン子クラブ」も知らなかった。


私が、院内感染したのは、翌々の1987年夏…。


胃潰瘍で入院することになった夏のことだった……

当時画期的な薬が登場した。

H2プロッカーという薬である。


今では、薬局でも売っているこの薬が、手術を回避させてくれた。

それまでは、潰瘍は即手術が常識だった。



入院した途端、夕方から、当地でも遅ればせながら「スケバン刑事II 少女鉄仮面伝説」の放送が始まった。

南野陽子をこよなく好きだった私は、たった一人の友人に録画を頼んだ。

彼は、生涯唯一の友人である。


私は点滴をしながら、穏やかな入院生活を送っていた…その日までは…



 ~突然、発疹が発現した。

 ~しかも激痛、背中から肋骨に添って胸周り全体に広がった。



体調を崩し、潰瘍になり、抵抗力も落ちていたに違いない。

その時を見計らって、「帯状疱疹」に感染したのだ。


ところが、入院していた所は内科・胃腸科で、皮膚科は問題外。

私は全く効かない何かの塗り薬と、痛み止めの座薬だけを施され、

一日中痛みに顔を歪め、歯を食いしばり、呻きながら、苦しみもがいていた。

  こめかみが、巨人獣によって、皮を剥ぎ取られるような激痛!!

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  痛みは五日間程続き、やっと収まりかけた頃、自力で外出し、近くの皮膚科へ。

しかぁ~し時既に遅く、「帯状疱疹」は治りかけていて、何も処方してもらえなかった。

医師曰く、内科で出された塗り薬を見て、「それで十分だよ」と、女医が言った。


一応、出来る事はしたみたいだった。




所が、肋間神経を散々痛めつけた「帯状疱疹」は、

私に思いがけない身体的変化をもたらしていた…

顔に発症すれば、失明すると言われる「帯状疱疹」は、ウィルス感染による病気。


その恐さを、私はこのあと、いやと言う程味わう事になる。



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