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カテゴリー「自然災害」の記事

2013年3月11日 (月)

被災地、いまだ震災戦争状態にあり。

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東電に重い十字架 遅れる賠償・廃炉、汚染水処分先決まらず
福島第1原発事故を起こした企業として3度目の「3・11」を迎える東京電力。事故の賠償や放射性物質の除染など抱える問題は多い。30~40年かかる廃炉を着実に実行していかなければならないが、赤字経営からの脱却に向けた柏崎刈羽原発(新潟県)の早期の再稼働は困難な見通しで、先行きは混沌としている。
「被災者のあの表情、あの目を忘れられない。『世界最大の公害企業の手先だ』といわれ心に突き刺さった」(石崎芳行復興本社代表)。会社の将来が見えないため、若手を中心に社員の離職が前年を上回るペースで続く。この1年で約500人が会社を去った。
土地や建物の損害賠償が遅れていることも被災者の不満を高めている。昨年7月に不動産賠償の基準が示されたが、所有者確認などで難航し、いまだに賠償手続きを始められない。
福島第1原発での廃炉作業も順調とは言い難い。毎日約400トン増えている汚染水は敷地内のタンクにためるばかりで、処理した後の行方が決まらない。秋には4号機の燃料貯蔵プールから燃料棒を取り出す作業が始まるが、燃料が溶け落ちた1~3号機では、放射線量が高く、ほとんど手つかずの状態となっている。  msn産経ニュース



起こった事故の代償は余りにも大きく、今後、孫子の代まで汚染水の管理・貯蔵、更にその先の子孫まで果てしなく使用済み核燃料と核廃棄物の管理・貯蔵の責務が延々と続く・・・、延々と・・・。

福島県は3月11日午後、福島市の県文化センターで追悼式を開き、東日本大震災の犠牲者を悼み、東京電力福島第1原発事故からの復興を誓った。 福島県は今なお15万人以上が避難生活を送る。佐藤雄平知事は「大切な人を失い、生まれ育ったふるさとが奪い去られた悲しみは、いまだ癒えていない。一日も早く元のふるさとを取り戻し、世界に誇れる復興を成し遂げる」と決意を述べた。式典には約千人が出席し、地震が発生した午後2時46分に黙とう。知事や遺族代表が献花台に花を手向けた。

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被災地支援にも携わった女優広末涼子さん(32)が、福島県の高校生が書いた「東日本大震災犠牲者追悼詩」の詩3編を朗読し、東日本国際大学付属昌平高校1年の加藤陽子さんは「故郷」と題して「故郷への思い 帰りたい 故郷が好きだから 故郷を愛しているから」と綴った。



津波に対する過去からの教訓は、伝承されなかった……
言い伝えはどこかで途切れ、勝手に安心と慢心が日本人の心を支配してしまった。
地震と殆ど同時に津波に襲われた秋田県男鹿半島での、遠足に来ていた園児100人がアッと言う間に津波にのみ込まれた災害さえ、人々は忘れ、今回も大川小学校の児童が犠牲になった。




何故、教訓は活かされなかったのか?


三陸沿岸に無数に点在する、津波伝承の石碑は余りにも小さく、ほとんど目に止まる事はなかった。
今回はたくさんの映像があり、たくさんの生死を彷徨った人々がいる。
だからこの震災は長く語り継がれるだろうと、誰もが思っている。そして破壊された建物も、陸に打ち上げられた船も、「奇跡の一本松」も不要だと言う声が聞こえてくる。



しかし明治三陸大津波も、昭和三陸大津波も、年月と共に風化し、忘れ去られて行った…
海外でも大災害や大事故は起きている。そんな時、彼らはその出来事をいかにして未来に伝えようとしているのか?
決して忘れない為に、脈々と語り継ぐ為に…


Photo_2
これは1988年12月21日、リビアのテロ組織によって空中爆発したパンアメリカン航空103便の犠牲者の名前を刻んだ石碑だ。
パンアメリカン航空ボーイング747は、英国スコットランド地方の都市ロッカビー上空で爆発、地上の住民を含む270人が犠牲となった、卑劣なテロ事件である。


この石碑には、爆破事件で犠牲になった全ての人の名前が刻まれ、ロッカビーの飛行機墜落場所に建てられた。

あの事件から24年が経った今も、この石碑は、テロの脅威とテロに対する怒りを忘れさせる事はない。
明治三陸大津波で、当時の人々が石碑に刻んだ「津波への戒め」とそっくりではないか・・・。
恐ろしいものだからこそ、決して忘れてはならない、と言う事を明治の人達は伝えたかったのだ。




自然に対して謙虚になれ。そして津波に対する恐怖心を忘れてはならない、と思う。


2012年9月 3日 (月)

証言記録 「福島第一原発」 時系列ドキュメント

この惨劇は何故起きたのか?
その時、「福島第一原発」では何が起こり、作業員や指揮官はどう判断し行動したのか?
危機に直面した人々の証言を基に、窮地に陥った状況を克明にする・・・。
ナショナル ジオグラフィック(NATIONAL GEOGRAPHIC)  衝撃の瞬間5 「福島第一原発」より
日本語字幕全文書き起こし。

これは実話であり、

公式の記録と目撃者、及び専門家の証言を基に

構成した時系列の記録です。

1945年(昭和20年)8月9日、日本に投下された原子爆弾によって、原子力の威力が世界に示されました。 今は平和利用されている原子力ですが、常に危険をはらんでいます。

1979年ーーー。
アメリカ・スリーマイル島原発事故では、大勢の人が避難。

1986年ーーー。
チェルノブイリ事故では、欧州が混乱に陥りました。

もう事故は、許されないはずでした。


しかし2011年ーーー。
大地震が、福島第一原発を襲います。
続いて大津波が到来。

原子力の脅威が再び日本を襲ったのです。

「全ての事故には、必ず原因があります。大惨事の陰に隠された、驚くべき真実に迫ります」

     第一章
     『マグニチュード9.0』


2011年3月11日。
日本。東北地方ーーー。
午後二時四十七分。

 小学校教師の堀内恵里子さん(仮名)は、教室にいました。
 突然、教室が揺れ出します。
「すごく揺れて、長い時間だったので、部屋の中のものが飛び散りました」
と、堀内さんは冷静に思い出しながら語った。
「机の下へ!」
 冷静な判断が急がれます。
 堀内さんはさらに続ける。
「子供たちと一緒に、机の下へ潜りました」
 揺れは長く続きました。

 東京でも強い揺れを感じました。
 堀内さんの行動は的確でした。
「練習してましたので・・・。いつも避難訓練で練習してましたので、子供はちゃんと先生の言うことを聞いて、練習どおりに出来たと思います」
と、その瞬間を振り返った。

 高層ビルが揺れ、建物が崩れます。
 地震の規模を示すマグニチュードは9.0。
 日本の観測史上最大の地震です。
 震源は宮城県沖約130キロで、東北地方一帯に、大きな被害を及ぼしました。


午後二時五十四分。

 東京では下村内閣審議官が、官邸内の危機管理センターへ。
 地震の規模から、多数の犠牲者が予想されました。
 政府は対策チームを招集します。
下村健一内閣審議官が、その時の緊迫した状況について、
「これはもう、地元の行政が例えば救助の要請を出してくるとか・・・、そういう事を待たずにきっと動き出すしかないだろうと言うことは、あの規模から直感しました」
と、危機管理センター内の判断を語った。

 被災地には、5つの原発があります。
 最大規模を誇る福島第一原発は、首都圏の電力の供給源です。
 官邸は情報の遅れに、苛立っていました。
 東京電力からの情報は、全て原子力安全・保安院を通して伝えられます。
森山善範・原子力災害対策監は、その時の状況を、
「地震後に、原子力安全・保安院で受けた連絡としては、まずは地震が起きて、原子炉が安全に停止をしたと。・・・それから、地上の電源が起ち上がったと・・・」
こう述べた。

 福島第一原発と震源との距離は、178キロありました。
 揺れを感知すると、原子炉は自動停止し、安全な状態に入ります。
 作業員が建屋内部に入り、施設への被害は、最小限であると確認した。
 しかし強い揺れは、外部電源を奪いました。
 非常用電源(Emergency Power)が作動し、原子炉の自動停止が進みます。


午後二時五十四分。

 NHKが国会中継を中断し、緊急地震速報の臨時ニュースの放送を始めた。
「津波警報が発令されました」
 これが大津波警報の第一報だった・・・。
 警戒の対象地域は、太平洋一帯。
 福島も例外ではありません。

 地震後、堀内さんの学校では児童全員が無事でした。
 マニュアルに従い避難します。
 児童はバスに乗り、自宅のある海岸方面へ向かいました。
 津波警報を知らずに・・・。
 福島第一原発でも、避難が始まりました。
 作業員たちは津波に備え、一時的に避難します。


午後三時二十七分。

 各地の海岸では、津波の映像がとらえられていました。

 福島第一原発も、津波の襲来を受け、敷地内が浸水。
 そして非常用電源も喪失ーーー。
 建屋で損傷の確認作業をしていた2名は、一瞬で命を奪われます。
 闇に包まれた中央制御室ーーー。
 原子炉内の温度や圧力を確認できません。
 全ての機器メーターは動かず、ついに冷却機能が失われます。

 堀内さんは不安でした。
 他の子供たちは無事でしょうか?
 堀内さんはその時、見慣れない光景を目撃しました。
「海から4キロも離れている国道6号線に、ボートが流されているのを見て、非常に心配でした」
と、心境を振り返った。


午後三時三十七分。

 首相官邸では、福島第一原発の全電源喪失が、菅首相に伝えられた。
 事態の状況を、専門家が首相に説明した。
 この時のやりとりについて、下村健一内閣審議官は、
「この専門家という人たちが、ほとんど答えられないんですよね・・・」
と振り返り、さらに、
「何をすべきか、と言うことについて。・・・つまり彼らにとって想定外だったから」
と付け加え、事態の深刻さと専門家の甘さを認識させらることとなった。

 作業員たちは原子炉を冷却しようと、知恵を絞ります。
 最悪の事態は刻一刻と迫り、もはや現場の作業員たちの「英知」だけが頼りとなった。
森山善範・原子力災害対策監は、その時の判断を振り返り、
「電源車を集める・・・。電源車による電気の供給を行う事が、ほぼ唯一の手段となりました」
との結論に至ったと語る。
 福島第一原発付近の道路は寸断されていました。
 発電機の調達は望めません。


午後六時八分。

 1号機の制御室では、作業員が原子炉の状態を確認しようと奮闘中でした。
 乗用車や作業トラックなどの車のバッテリーを、必要な計器につなぎ込みます。
 回路一つずつを確認してゆく。
 放射線量が上昇を始めました。
 被ばくを防ぐため、防護服と防護マスクを着用します。
 原子炉内の圧力が、上昇していましたーーー。

 圧力を下げる方法を探ります。


     第二章
     『ベントを開けろ』


午後七時三分。

 首相官邸。
 状況を知った菅首相は、緊急事態宣言を発令します。
下村健一内閣審議官がその時の様子を振り返り、
「大変な事だよ、これは!と言う言葉を何度も独り言のように繰り返していたのを覚えています」
と沈鬱な表情で語った。
 しかし、官邸に入る情報は限られていました。
 福島第一原発と直接連絡を取ることも出来ません。

 混乱している中でも、専門家たちは楽観的でした。
森山善範・原子力災害対策監がその時のことを、
「格納容器の圧力が上がるのを止める手段ですが・・・、圧力を逃がすための弁があります。ベントと言う・・・」
かいつまんで話した。
 専門家は弁を開放して、圧力を下げる方法を提案した。

 当初、東京電力は拒否しましたーーー。
 放射性物質が大気中に放出されることを恐れたのです。

 しかし、最終的には、圧力を下げに向かいます。
 暗闇の中、圧力弁探しは難航しました。
 懐中電灯の明かりだけが頼りです。
 その間にも線量計の数値は、次第に上昇していきます。
 理由として、原子炉の損傷が疑われました。


午後九時〇〇分。

 官邸に悪い知らせが届きます。
 福島第一原発に向かった電源車の事でした。
 津波の影響で、発電所に入ってもガレキなどがたくさんあって、電源車がスムーズに進む事が出来ませんでした。
 散乱するガレキに阻まれ、電源車が到達出来なかったのです。

 原発から8キロの自宅で、堀内さんは不安を募らせていました。
 堀内さんの夫は外国人で、二人で話し合ったと言います。
「原発が危ないんじゃないか、という噂話をあちこちでしていましたので、その時に初めて、ああ・・・もしかしたら原発が危ないのかなって言うふうに感じました」
 自治体にも情報は入ってきません。
 堀内さんの夫、ドミニク・シュワルツさんは海外へ情報を求めます。
「ネットには接続出来たので、海外の新聞をチェックしました。」
と、ドミニクさんがこわばった表情で、その時の事を話した。
「海外の新聞は、被害を露骨に報じていました・・・。それから私の妻が原発の問題を噂で聞いたんです」
ドミニクさんは一呼吸おいて、
「翌朝、避難することにしました」
と、夜明けを待って行動する決意をしたことを話した。
 堀内さん夫妻は、暗い中での移動は危険と判断し、夜明けを待ったのです。
「電気もなくて、道路も・・・もう割れていましたので、朝の五時にそこを出発しました」

 一方、福島第一原発の1号機では、原子炉内の圧力が上昇を続け、爆発が危ぶまれました。
 しかし、圧力弁はまだ見つかりません。


三月十二日 土曜日午前五時〇〇分。

 堀内さん夫妻は福島第一原発から8キロの自宅を出発しました。
「とにかく、第一原発から遠くに、遠くにと言う考えがありまして、私たちが出たのは朝の5時で、6時にはもう一斉放送が入って、逃げてくださいと言う事だったんで・・・」
 堀内さんはカーラジオで情報を得ました。
 1時間後、避難する車で道路は大渋滞します。
 被爆を恐れた住民たちが、一斉に退避を始めたのです。


午前七時〇〇分。

 情報の遅れに苛立ちを覚えた菅首相は、直接、原発へ乗り込みます。
下村健一内閣審議官がその時の状況を語る。
「ヘリコプターで何キロメートル飛んでも、飛んでも、いつまでも同じように、水浸しになった、海と陸の境目がつかないような光景が展開していました」
 菅首相は、口を押さえたまま絶句し、眼下を見下ろしていたーーー。

 福島第一原発に着いた菅首相は所長と面会。
 圧力弁を開けない理由を問いただしました。
「所長が・・・たしか・・・あと4時間ぐらいのうちには、開けますからと・・・言うような事を答えて・・・」
と、険しい表情で、下村健一内閣審議官がその場のやりとりを振り返り、
「総理が、昨日からずっと・・・もうじき開けます、もうじき開けます、ばっかりじゃないですか! どうなっているんですか!?」
と、激昂した状況を明かした。


午前十時十七分。

 原発建屋内部。
 暗闇と高い放射線量を前に、圧力弁探しは難航します。
 既に作業員1人が、過酷な作業で病院に搬送されていました。

 ようやく見つけると、手作業で開きに取り掛かります。
 通常であれば電動で行われる作業です。
 今は車のバッテリーと腕力だけが頼りです。
森山善範・原子力災害対策監の証言・・・。
「安全に弁を開けられた結果として、格納容器の圧力が下がりました」
 これで1号機は危機を脱したと思われましたーーー。
 あとは電源の確保と、核燃料の冷却です。
 
 しかし、放射線量は上昇を続けます。
 放射性物質を含む蒸気が放出されたせいではなく、厚さ15センチメートルの鋼鉄製圧力容器に、破損の恐れがありました。
 核燃料が溶けて、外へ漏れた可能性もあります。
 予断を許さない状況でした。


     第三章
     『避難対象3000万人』


午後三時三十六分。

 福島第一原発を、大きな余震が襲います。
「東京電力からの報告は・・・、大きな揺れを感じた・・・」
と言うものでしたと、森山善範・原子力災害対策監は話し、


 その時、1号機の建屋で、爆発が発生!
「という事と、爆煙が上がってる。・・・白い煙ですね・・・爆発による煙が上がってる・・・」
という報告を受けた。
 1号機の近くでは、急激な放射線量の上昇が測定されました。
 圧力容器が損傷し、漏洩している可能性が強まります。
 他の原子炉も圧力が上昇していました。
「爆発をした1号機以外にも問題があると・・・。1号、2号、3号とも非常に厳しい状況であると・・・」
森山善範・原子力災害対策監に伝えられた。

 その二日後ーーー。


三月十四日 午前十一時〇一分。

 より大きな爆発が発生し、3号機の建屋が吹き飛びます。

 この爆発に、菅首相は衝撃を受けました。
下村健一内閣審議官はその時、
「私には、絶望感のようなものがありましたーーー。総理もすぐ横に、やはり専門家の人に向かって、『爆発は起きないって言ってたじゃないですか!どういう事なんですか!』・・・やはり聞いてましたね」
 一様に声を荒げたと言う。
 放射性物質の拡散を懸念する官邸ーーー。
 全世界が同じ思いでニュースを見守ります。
 
 原発周辺の放射線量は、更に上昇していました。
 福島第一原発は依然として、制御不能です。
 菅首相は会見を開き、厳しい現実を国民に伝えました。
「今後さらなる放射性物質の漏洩の危険が高まっております」

 いつ自宅に帰れるかも分からないまま、18万人が遠く離れた土地への一時避難を強いられました。
 堀内さんは、原発から80キロ離れていましたが、もっと遠い所へ行きたいと思っていました。
 その時の切迫した心境を、こう語る。
「出来れば海外に行きたいっていう事を考えていましたけれども、とにかく飛行機の席がもう取れない状態で、近くの空港から、どこか遠くに飛ぼうと・・・、福島空港から遠くに行こうと思いましたが、どれも席が取れない・・・」
 堀内さん家族は、放射能を恐れながらその場に残るしかなかったのです。


三月十五日午前六時〇〇分。

 3号機で爆発音がして、火災が発生します。
森山善範・原子力災害対策監はその時のことを、 
「従って、1号機の水素爆発のあと、2号機、3号機の水素爆発を防ぐという事を目標にしてやって来ましたが、残念ながら、それが実現出来なかった、と言うのが現状です」
と、沈鬱な表情で振り返った。

 炎が収まった4号機で、水蒸気が確認されました。
 燃料プールの水が蒸発すれば、水位が下がり、核燃料が露出します。
 燃料の溶融が起きかねません・・・メルトダウンの危機です。
 燃料プールの水位を上げる必要がありました。
 ヘリコプターを使って、放水します。
 海水を使えば、原子炉は腐食し、廃炉はさけられません。
 
 風にあおられ、散水は難航しました。
 高い放射線量が、作業を困難にします。
 核燃料の露出を防ぐ任務は、消防隊員らに託されましたーーー。
 
 消防指令長は精鋭部隊を率いて、放水活動に臨みます。
「しかし現場に行ってしまうと、やはり、国民・・・日本国民の期待に応えたい・・・。と言うふうに思いまして・・・」
 最初に派遣された消防隊を指揮したのは、
鈴伊知郎・川崎市消防局 消防指令長であった。
「福島原発の内部は、ほんとうにもう・・・怪獣映画さながらの状況でした」
 暗闇と、高放射性量、そして散乱する瓦礫との戦いが始まった。
 消防などによる決死の放水活動は、数日間続きました。

 被爆を防ぐため、二重に防護服を着ます。
鈴伊知郎・川崎市消防局 消防指令長は放水作業について、
「私くし、7時間ぐらい防護衣を着ていたんですが、非常に暑かったです。・・・当然、7時間の間は一切水を飲みませんし、トイレも行けない状況で、非常にストレスを感じていました」
と、作業の過酷さを振り返る。
 核燃料冷却のために、放水を行った結果、汚染された水が大量に海へ流れ出しました。

 福島から約230キロ離れた東京でも、水道水の汚染が心配され始めます。
 避難区域を半径250キロ圏へ拡大する事態になれば、東京都民を含め、約3000万人が避難の対象になります。
 前例のない事態に、政府の判断力が問われます。

 原発の電力が復旧したのは、約2週間後ーーー。
 事故の連鎖は防げませんでした。
 
 放射性物質の放出は続いています。
 福島第一原発の動向に、全世界が注目しています。

 福島第一原発が、深刻な事態を招いた原因とは?


     第四章
     『そして放射能は残った』


五月二十三日。

 国際原子力機関(IAEA)の調査団を、政府が受け入れた事を受け、国際原子力機関(IAEA)の調査団が来日した。


五月二十七日。

 調査団が福島第一原発を訪れました。
 日本の専門家たちと事故後の対応について、情報を交換するためです。
 事故の再発防止策も重要な課題です。

 調査団長は、核物理学者のマイク・ウェイトマン博士。
国際原子力機関調査団長 マイク・ウェイトマン博士の話です。
「入り口付近は、整然としていました。・・・中へ進むと、建屋が目に入りました。直接、現場を見て、大変な事故が起きたことを、改めて実感しました。」

 6基の原子炉のうち、3つの原子炉は修理不可能です。
 福島第一原発は安全を最優先に作られた施設でした。
 スリーマイル島や、チェルノブイリ事故も、忘れられていませんーーー。
 日本では地震や津波の恐れは、常に存在するのです。

『ーーー検証ーーー』

 まず津波対策として、防波堤を構築。
 原子炉は頑丈な岩盤の上に設置されました。
 電源喪失に備え、非常用電源の用意もありました。

 それでも事故は防げなかったのです。
 事故当日を振り返り、調査記録を基に検証し、原発事故の真相に迫ります。
 なぜ事故は起きたのか?


 核物理学者のマイク・ウェイトマン博士は、事故が深刻化した理由を探ります。
 そして福島第一原発の決定的な弱点として、津波よりも地震に重点を置いた設計に着目しました。

福島原発 建設時の記録映像に謎を解くヒントがありました。
 1960年代に建設が始まった際、台地を25メートル削り、敷地が造成されました。これはマンションなら約8階建ての高さになります。
 原子炉を岩盤上に、直接設置するためです。
 確かに耐震性は高まりますが、津波に対しては無防備です。
 そこで周りに防波堤が築かれました。
 想定水位は、最大6メートルでした。

 しかし、津波は防波堤をたやすく乗り越えました。
「津波により福島第一原発は、約15メートル浸水しましたーーー。浸水は施設の大部分に及んでいます。津波対策が、全く不十分だったと言うことです」
と、マイク・ウェイトマン博士は浸水直後のビデオ映像を見ながら、解説しました。

 作業員が撮影した津波の映像ですーーー。
 別の作業員は浸水の様子を、写真に収めていました。
 防波堤は低すぎたのです。
 設計段階のミスが引き金となり、メルトダウンの危機へと発展したのです。
 完成した時点で、破滅(カタストロフィ)へのカウントダウンは始まってしまったーーー。

 まず地震で電源を失いました。
 大きな揺れで、送電用の鉄塔が倒壊したためです。

国際原子力機関調査団長 マイク・ウェイトマン博士が解説する。
「揺れを感知すると、原子炉は自動的に緊急停止を始めます。ーーーそして非常用電源が起ち上がります」
「原発には非常用電源が備わっています。福島第一原発には、6つの原子炉に13基が設置され、地震直後は正常に動いていました」
 続いて津波が到来ーーー。
 大量の水が流れ込み、非常用電源は水没します。
「非常用電源は、タービン建屋の地下にありました。低い場所に位置していたため、浸水被害が増大したのです」

 防水ドアも津波には役立ちません。
 全電源を喪失しました。
 そして原子炉にある、圧力容器の温度が上昇を始めます。
 状況は明快でした・・・。
マイク・ウェイトマン博士が説明を続けます。
「原子炉圧力容器は、それ自体が大きな構造物です。・・・高さが約20メートルもありますが、仕組みはヤカンと同様です。原子力発電は核分裂の熱で、水を蒸気に変えタービンを回します。電源が失われたことで、冷却水の循環が停止ーーー。しかし、緊急停止後も核燃料は崩壊熱を発し続けます。原子力発電において、冷却機能は最も重要です。核燃料は冷却し続ける必要があるのです」

「しかし、電源の喪失で冷却機能が停止・・・。核燃料の温度が上がり、溶け出して、大量の放射性物質が放出されました。しかも、電源の喪失で計器が止まり、原子炉内の状態は把握出来ません・・・」
 この時の福島第一原発敷地内の様子について、
「5月に現地へ行きましたが、多くの乗用車が、施設内に放置されていました。作業員たちは車のバッテリーを取り出し、計器に繋いでいたのです」
 と、その時の光景を振り返った。
 アイデアが功を奏し、原子炉の状態が一時的に分かります。
「原子炉の水位を確認するために、作業員たちは必死に計器を見ようとしました」
 作業員はバッテリーの電力で機器を動かし、圧力弁を開けますーーー。

 計器は、原子炉が過熱している事を示していました。
 しかし冷却機能が停止し、打つ手がありませんーーー。

 更に設備面の問題が、事態の悪化を招きます。
 マイク・ウェイトマン博士は、旧型の原子炉に爆発の原因があると指摘します。

国際原子力機関調査団長で核物理学者のマイク・ウェイトマン博士が解説する。
「原子炉内の燃料棒は、循環する水で常に冷却されています。ーーー燃料棒を覆うジルコニウムは、高温でも腐食しにくい上、核分裂を阻害しません。しかし一定の温度を超えると、不安定になります。燃料棒の温度が上がると、ジルコニウムと水が反応して、水素が発生します。当時、原子炉は2800度に達したと推測されます。ジルコニウムが反応しても、おかしくはありません」
 水素爆発を防ぐために、作業員たちは格納容器に、炉内で発生した水素を逃がします。
 これと同時に放射性物質が放出ーーー。
 それらは弁を通り、外へと漏れ出します。
 しかし、水素は全てが放出されず、多くが建屋の上部にたまります。
 それが水素爆発を引き起こしました。
「設備の損傷もあり、簡単に引火したと思われます」
と、マイク・ウェイトマン博士は推測した。

 たまった水素により、福島第一原発の1号機と3号機は大爆発。
 4号機では大火災が発生しました。

ーーー世界中に衝撃が走ります。

アメリカNBC、CNN、イギリスBBC、ロシアRTRが速報で事態を伝え始めた。
「日本は危機に直面しています」
「放射能汚染が心配されます」
「海外では多くの専門家たちが、事態を深刻に見ています」
「チェルノブイリ事故の再来です」
 日本政府の発表とは異なり、脅える人々の脳裏に、地球規模の大汚染を招いたチェルノブイリ事故がよぎります。
 チェルノブイリでは原子炉が爆発し、核燃料8トンが放出されました。

 福島第一原発から飛散した放射性物質の量を、チェルノブイリ事故を例に再検証します。
「福島第一原発から放出された放射性物質は・・・、チェルノブイリの約1割で、範囲も限られていました」
と、マイク・ウェイトマン博士らは考えている。
 しかし、同様の事態に発展していた可能性が指摘されています。
 原子炉に水素がたまり、圧力が高まれば、建屋だけでなく、原子炉自体の爆発を引き起こします。
 3号機には約90トンのプルトニウムとウラン燃料がありました。
 これが屋外に放出されれば、チェルノブイリと同じ事態が起こります。

 菅首相命令で原子炉の圧力弁を開放したため、恐るべき事態は回避されました。

 マイク・ウェイトマン博士は、現場の判断は妥当と評価しました。

 津波から約2週間後、電源が復旧すると、原子炉の温度は下がり始めました。
 しかし、溶融した燃料から放射性物質が出ていて、ロボットしか近づけません。
 建屋内の除染には何年もかかります。安全が確認されない限り、立ち入り調査は出来ません。
『今回の事故の連鎖は、設計ミスが原因でした』


 次にマイク・ウェイトマン博士は、東京電力側の責任について追及します。
 彼は津波対策の怠慢を指摘しました。
 2002年に東京電力は、津波に関する試算を行っています。
 その際、福島第一原発に津波の被害が及ぶような大地震は、今後30年間起きないと結論づけました。
ところが・・・・・
マイク・ウェイトマン博士はこの点を厳しく指摘します。
「東京電力の津波対策は不十分でした。過小評価することなく、あらゆる対策を練る必要がありました」

 東京電力は、安全基準に沿って対策を講じていたものの、想定外の津波が事故を招いたと主張。現場の対応にも、落ち度は無いと説明しています。
 事故のあと、福島第一原発から放射性物質が拡散しました。
 放射能汚染に関する住民への説明は、十分に行われませんでした。
 東京電力と政府の対応が非難されています。
小学校教師の堀内恵里子さんは、
「放射能汚染に関する説明がないまま、避難地域の拡大が発表されました」
と、どこからも説明が無かったことを明かす。

 政府内でも情報公開を巡り紛糾。
 菅首相は公開を求めましたが、専門家の意見に頼らざるを得ませんでした。結果的に、専門家の判断が、避難住民の混乱を招きました。
下村健一内閣審議官が混乱の数日間を、
「地震発生以来数日間、とにかく原発はこれからどうなるんだ! と言う質問に対して、それはもう、設計上ありません、と言う専門家。しかしそれが目の前で起こった・・・。この人たちの言う事は、何を信じたらいいんだ・・・という絶望感のようなものがありました」
と、悲痛な表情で振り返った。
 東京電力から詳細情報が入らず、官邸の専門家も困っていました。
更に下村健一内閣審議官は続ける。
「事故現場に近い立場の人たちが、本当はどこまで知っていたのか? それが全部政府に共有されていたのか?」
下村健一内閣審議官の口元には、悔しさがにじんでいる。

 もはや菅首相の手に負えない事態でした。
 震災から約5ヶ月後、首相は辞任します。
 事故が収束する兆しは見えません。

 福島第一原発はの原子炉は、冷温停止しました。
 しかし放射性物質の放出は続いています。

マイク・ウェイトマン博士はこの事故について、
「完全に制御されるまでには、長い年月がかかるでしょう・・・」
と、指摘します。
 しかし、福島の事故をきっかけに世界は動き始めています。
 大きな決断をした国もあります。
 事故から2ヶ月後の2011年5月。ドイツは原子力からの脱却を決定し、再生可能エネルギーの推進に乗り出します。スイスとイタリアも続きました。
 日本は電力の約3割を原子力に依存しています。
 福島第一原発の停止を受け、首都圏では計画停電が行われました。
 交代した野田首相は、原子力推進の意向を示しています。

 福島第一原発の作業員たちや、放水に関わった消防隊員は、健康に異常がないかチェックを受けました。
 放射線の影響は、いつ出るか分かりません。

 小学校教師の堀内恵里子さんは、日本にとどまりました。現在、原発から80キロの距離に住んでいます。
 児童を乗せたバスは津波を逃れ、全員無事でした。
 
 福島第一原発の周辺では、事故の影響が続いています。
 半径20キロ圏内は、現在も計画区域です。
 農場は放棄されました。
 農地は表土を4センチ削るなどの除染が必要です。
 それまで農作物は育てられません。

 十万人以上いるとされる避難住民たちが、自宅に戻れる日は、まだ先ですーーー。

 
 
 原文・英語字幕・日本語字幕/ナショナル ジオグラフィック チャンネル/2012年4月15日


2011年12月 9日 (金)

東電管内と東北電力、9日著しく電力供給が逼迫

首都圏から東北の広い範囲で気温が低下した9日、電力供給が危機一髪の状態にまで上昇した。

 東京電力管内の電力使用率が9日夕、94%強に上昇した。4月上旬に計画停電を原則実施しない方針を打ち出して以降、最高水準となった。

同日午後5時~6時に最大供給力4730万キロワットに対し、使用電力が4487万キロワットに達した。寒気の影響で気温が下がり、暖房需要が増えた。


 9日に能代火力発電所1号機(秋田県)が停止した東北電力に、最大70万キロワットの電力を融通したことも影響したとみられる。東電によると、10日の使用率は午後5時台で90%の見通し。




 東北電力は9日、東京電力と北海道電力から最大で計110万キロワットの電力融通を受けた。東北電力が今冬に受電した規模としては最大。
管内の気温低下で電力使用が増えたことに加え、能代火力発電所1号機(秋田県能代市、定格出力60万キロワット)が同日に自動停止したため電力需給が逼迫した。


 東電から最大70万キロワット、北電から同40万キロワットを受電した。
東北電力は9日の気温低下を踏まえて昼の段階で東電から30万キロワットの融通を決めた。その後、午後2時頃に能代火力1号機がバーナーに石炭を供給する装置のトラブルで自動停止。供給力が低下したため、東電から追加で40万キロワットを受電することになった。


 東北電力は北電から12月中に30万キロワットの融通を受ける契約を結んでいるが、能代火力1号機の停止に伴い9日は10万キロワットを上積みした。能代火力1号機は検査の結果、設備に不具合はなかった。東北電力は「再起動の準備が整い次第、発電を再開したい」としている。


 東北電力が11月以降に東電と北電から受けた融通で最大だったのは11月21日の計82万キロワットだった。




クリスマスムード一杯で、尚且つ、年末年始と言う事で、普段より電力を使ってしまうこの時季、いくらLED電球にしたり、石油ストーブにしても、夏なら冷たいご飯に、冷たいそうめんでもいいが、寒さが増す今は鍋料理や、暖かいものを食べたくなる。
食べ物を温めるというだけで、自然と電気を使ってしまう。


はてさてこれから益々寒くなり、昼中でも氷点下になると、東北や北海道ばかりでなく、アルプス地方一帯も気温が下がり、電力需要は更に逼迫する事が予想される。

最も寒波の厳しい1月から2月にかけて、停電になるかもしれない。

そうなると夏と違って、うちわで扇ぐという訳にもいかないので、厚着をして、ホッカイロでも身体に付けるか、或いは寝袋でも用意して置くか・・・。


高層マンションともなると、灯油を持って昇るのもしんどい。しかも一酸化炭素中毒の危険もあるし、火事が一番恐い。


近代建築の流行である、大きな窓の戸立て住宅も、複層ガラスか三層ガラス、或いは二重サッシにしている所は少ない。複層ガラスにするだけで、結露も防げるが、まさか停電になる事を前提に建てた家は、数える程しかないだろう。

原発の稼働状況(図)


「脱原子力発電」を唱え、太陽光発電などの自然エネルギー事業を推し進めると宣言したソフトバンクの孫正義社長。
だが、震災直後に比べると、孫社長の関心はかなり薄れているとの印象が強い。

神奈川県の黒岩祐治知事は10月7日、「4年間で200万戸分の太陽光パネル設置」の目標について、「あのメッセージは役割を終えた。忘れてほしい」と撤回した。
埼玉県の上田清司知事も10月18日、記者会見で「当初の話はかなり消えかかっている」と打ち明けた。孫社長は当初、県に約1億円の資金と建設地の提供を求めたが、出資にするのか、補助金にするのか、といった枠組みの提示は、いまだ孫社長が何も言ってこないという。

自治体の尻込みや孫社長のトーンダウンについてソフトバンクは、「電力の買い取り価格などの前提条件が見えない現状では、事業の枠組みを作れない。実現性が云々(うんぬん)と言われても、正直困惑している」と反論する。


つまりは所詮、自治体に協力してもらって、建設の応分の負担を求めたが、それは自治体にとって利益にはならず、逆にソフトバンクの意のままに動かされている、と感じたのかもしれない。


この冬の時季になって、太陽光発電に頼れない状況が、より鮮明になったと言える。
想像すれば、一年中晴れて、真夏の猛暑に考えた構想が、曇り空の続く冬になり、現実が見えて来たと言う事か・・・。

統計によれば、東北地方で屋根に太陽光パネルを設置している家は、1.5%しかない。
昼が短く、晴れ間が続かない独特の気候が、太陽を遮って、太陽光パネルの設置費用に見合う効率が得られない事を、誰もが知っている。だから設置数が少ない。

せいぜい部屋の照明くらいで、家電品を動かすとなると、相当広い面積の太陽光パネルが必要になる。


そこで真夏の直前の7月半ば。
地元自治体に意見書を送った。

当地には、葛根田第一水力発電所と、葛根田第一地熱発電所、葛根田第二地熱発電所、後所湖水力発電所の4の発電所が稼働している。
勿論、これだけあれば当町は勿論の事、盛岡市の電力もまかなえる。

しかし脱原発の機運は止まらないだろうと思い、町長宛に、「岩手県内や東北全体の安定的電力供給のため、葛根田第三地熱発電所の建設を目指してはどうか?」という意見である。


地熱発電は自然エネルギーとして最も有望視されているにも関わらず、全国、どこの自治体も名乗りを上げないし、企業も採算が取れないという理由で、全く手をつけようとしない。

東北が電力の供給源として、期待されているのは間違いないのに、現実は誰も手を上げようとしない。

それなら既に地熱発電所のある当地で、3つ目の地熱発電所の建設を目指しても良いのではないか・・・? と訊いてみた。

しかし返答は無かった──。


実は、あの3月11日の東日本大震災の直後に停電になった当地だったが、翌日3月12日の夕方には、町内にある東北電力の変電所の建物だけは明かりが点いていた。

だから停電は直ぐ解消されると思ったのだが、結局停電はは3日間続いた。

あの時、葛根田第一地熱発電所は翌日には運転を再開していたのだ。
葛根田第二地熱発電所はその翌日に運転を再開したが、各地の送電線の点検の為、地元でも電気は点かなかった。
変電所で立ち往生していたのだ。


その時思った。

地熱発電所がいかに頑丈で、安定的に、雨の日も、台風の日も、豪雪の日も、梅雨の時季も、常に発電している事の凄さを・・・。

このエネルギーこそ、これからの日本に求められているエネルギー源なのではないか、と。


だが、この熱意は町長には届かなかった。

2011年10月16日 (日)

「地震学の大きな敗北」…地震学者は常に地震が起きた後に考える

東日本大震災での巨大地震を受け、日本地震学会は15日、特別シンポジウム「地震学の今を問う―東北地方太平洋沖地震の発生を受けて」を開いた。予測できなかったマグニチュード(M)9.0という巨大地震を想定できなかったのは「地震学の大きな敗北だ」など、学会では異例の自己批判が相次いだ。

地震と津波がもたらした甚大な被害は、被害額約16兆9000億円以上、14日現在の死亡者数1万5824人、行方不明者3847人。建物の全半壊がおよそ29万9000戸、一部損壊60万戸以上。

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あの日から7ヶ月…
地震学者は毎回、巨大地震が起こると、地震発生のメカニズムや地震の揺れの伝わり方の分析ばかりを行う。そして毎回、地震は予測出来なかったと屈服するのだ。

地震や津波の災禍から人々を救って来たのは、地震学者ではなく、土木建築学や文化史跡、物理的力学に基づくたゆまぬ経験の積み重ねである。

地震学者がいくら研究や議論を交わしても、彼らは土木や古代史や建築学には全くの素人だ。
地震は、いつ、どこで、どのくらいの規模で起こるか予測がつかない。それなのに多額の予算を貰い、研究しているのは数値にばかり頼った研究でしかない。

数値に頼った研究が、人知を凌いだと思い込み、祖先の教訓に耳を傾ける事なく、原発を作ってしまった。
福島第1原発が大津波で壊滅した時、すぐ近くの女川原発は極めて正常に停止していた。福島第1原発と女川原発の被害の違いは、設計者の独断による、地盤のかさ上げだった。


「低くては万が一の時浸水する可能性がある」と言う、建設開始当時の現場の工事責任者の判断が、女川原発を最悪の事態から救ったのだ。


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日本は古代の頃から、巨大地震が幾度も日本の大地を揺るがし、大津波は沿岸各地に襲来していただろう。
私たちの祖先は、千年以上も前から、その悲惨な大災害を繰り返さないように、後生の人々に言い伝えて来たはずだ。

『つなみてんでんこ』

地震学者が誰一人として知らなかった先祖代々語り継がれた教えは、確かに巨大地震津波から人々を救った。
代々の伝承が、データや数字、統計だけに頼っていた地震防災より、遙かに勝っていた・・・。

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東日本大震災で記録したM9.0でも、東北地方沿岸の建物には、阪神淡路大震災のように無残に押し潰されるという被害は、殆ど出なかった。民家でも十分な耐震構造になっていたのだ。

──しかし、津波の言い伝え(伝承)を聞かなかった人は、高台へ家を建てる事もなく、先祖からの教訓を無視して生活して来た。
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予測のつかない自然災害に、昔の日本人はどう立ち向かって来たのか
地震学者がこれからしなければならない事は、地震の予知ではなく、地震や津波が起きたらどうするのか?? と言うシンプルな疑問に答える事ではないのか。

津波警報が出て、間一髪、津波から逃れられたとして・・・その後どうするのか? 家は流され、電気は止まり、避難所生活が始まる・・・。しかしこれまでの防災訓練は、ただ逃げるだけに終始していた。
逃げて、助かったあとの事を全く考えて来なかった。

避難所の場所、避難生活に必要な物資は用意出来ても、家は流され、住む場所は無い。そんな事態になる事は、当然、避難訓練をすれば分かる事ではないか
命からがら逃げる、その為の避難訓練ではないのか
振り返ったとき、そこに我が家は無い・・・
何故これまで仮設住宅の事を訓練に入れて来なかったのか
何故、通信の確保の訓練をして来なかったのか
何故、流された家の替わりをどうするかを考えて来なかったのか

避難訓練は遊びではないはずだ。生きる為の訓練ではないのか。
避難したあとに襲いかかる苦難の数々に、どう立ち向かうのか、を何故今まで考えて来なかったのか


それが地震学者の仕事ではないのか・・・。

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巨大地震は又必ずやって来る。
沿岸には大津波が必ずやって来る。
そして復興には、途方もない労力と時間が必要になるのだ。



世界一の防潮堤を建てようが、免震構造のビルを建てようが、地震や津波は容赦なく襲いかかる。
歴史が、そう私たちに教えているのだ。
先人たちが私たちに教えているのだ───。


地震学者は今こそ、真剣に、昔の人の言い伝えに耳を傾ける時ではないのか。
そうしなければ、「地震学の敗北」はいつまでも続く・・・。




9月初め。
地元、盛岡の新聞社から、写真集「ありがとう自衛隊<勇士たち>」が出版され、購入した。
自衛隊岩手駐屯地の自衛隊員の活動記録集だ。

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大規模な災害が起こると、私たちはいつも自衛隊のお世話になっている。去年の冬の山陰地方を襲った大雪では、国道に閉じ込められた人々を救う為、自衛隊が雪かきをした。
勿論、屋根の雪降ろしや、遭難者の救助、地震の時の救助や、崖崩れ、土砂災害の時の土砂の取り除きなども自衛隊なしでは考えられない。

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今回のような未曾有の大災害では、陸・海・空自衛隊が総動員された。

自衛隊は何も災害派遣の為に、日頃訓練している訳ではないが、いつしか自衛隊の役割の一つに災害救援が当たり前のように日常化している。

もし東京という大都市で、大災害が発生したら、果たして自衛隊は足を踏み入れるのだろうか・・・??
がれきで埋まった道路を自衛隊の車両は走れるのか?
崩落した高速道路や、降り積もった高層ビルの塊を越えて、救助に行けるのだろうか?


しかし思ったのだ。
この写真集を見ていると、たとえいかなる困難があろうとも、人々を救う──という目的のためなら、自衛隊は動き、空を舞い、先へ進むと。

それが自衛隊員の、「予期せぬ勇気」なのだと・・・。


2011年7月12日 (火)

岐阜県の英断、ソフトバンクの太陽光発電計画参加見送り

通信大手ソフトバンクが全国36道府県と設立を目指す「自然エネルギー協議会」について、岐阜県は11日、参加を見送る方針を固めた。同社が進める大規模太陽光発電計画が、自然エネルギーの「全量固定価格買い取り制度」に過度に依存しており、県民の負担が大きくなる、と判断した。
ソフトバンクの担当者が6日に同県庁を訪問。県は、事業のビジネスモデルや、菅直人首相が意欲を見せる全量固定価格買い取り制度が不成立となった場合の対応について質問した。
県によると、13日に秋田県で協議会の発足式があるが、11日夕現在、ソフトバンク側から質問に対する回答は来ていない。岐阜県幹部は「全量固定価格買い取りにこだわらなければ参加する可能性もある」としている。


新橋の汐留にあるガラス張りのソフトバンク本社の窓を、全部太陽光パネルに張り替えて、まず自分でやってみて実証してほしい。
他にもたくさん資産があるのだろうから、まずは自分の所の電気くらい、自分でまかなえるくらいの自給自足企業にしてから、提案ししてもらいたい。


そもそも大規模太陽光発電に使う、肝心の太陽電池パネルは、どこの製品を使うと言うのか?

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日本が太陽電池パネルの生産で上位にいたのは過去の話で、いまや上位5位には入っていない。
しかも最も重要な変換効率でも、京セラがだんとつだった時代は過去の話。

つまりソフトバンク構想では、日本企業にはメリットは無いし、世界的競争力を失った日本製品ではなく、海外メーカーの太陽電池パネルが、わんさか輸入される。

日本企業の再生とか、復興なんて「名」ばかりで、メンテも経年劣化交換時も、結局、海外メーカーが優遇されてしまうだろう・・・。

2011年7月 7日 (木)

三井物産が東北の被災地にメガソーラー建設?…何んのため!?

東北の震災被災地に、大規模太陽光発電所を建設しようとしているらしいゾ・・・・・と。


大手商社の三井物産が、東日本大震災の被災地である岩手、宮城、福島県などに大規模太陽光発電所(メガソーラー)を建設する方針を固めたことが6日、わかった。被災地の復興を支援するほか、「脱原発」の機運が高まる中で注目される再生可能エネルギー分野を主要事業の一つとする狙いがある。

メガソーラーは、ソフトバンクや他の大手商社も参入を検討しており、産業界に一気に事業化の動きが広がりそうだ。

メガソーラーと言うのは、千キロワット~数万キロワット以上の規模を言うらしいが、その用地の候補の一つが宮城県東松島市。そうだ東日本大震災の津波で甚大な被害を受けた所だ 復興支援にもつながると期待されている。
 
関係者によると、東松島市は日照条件が比較的良く、三井物産と市の間で発電所立地に向けた交渉が進められているという。市側は既に市有地など3カ所を候補地として選定しているらしい。


津波で町が壊滅した三陸沿岸の市町村では、がれきが撤去されれば、相当数の空き地が出来る事になる。その空き地や、沿岸地域にとって数少ない平坦地に、太陽光発電所を作るという、商社や企業にとってはもってこいの条件とも言える。


原発が今後再稼働の可能性が益々低くなり、関東圏での電力が逼迫している中、復興の名目で、東北の豊かな大地に多無数の太陽光パネルを並べるのだ。


再び東北は、東京の電力供給基地にされようとしている。

東京には、大規模太陽光発電所を建設出来る場所など無いから、その矛先が、震災で傷ついた東北の人々の心の空きを狙って、岩手、宮城、福島に向けられたとしか思えない




果たして東北は、原発が止まった今、本当に電力が逼迫しているだろうか647563

東日本大震災発生の3月11日、岩手県は何故停電したのか・・・647563 そのそもそもの原因が6月23日、明らかにされた────。



東日本大震災直後に全80万戸が停電した岩手県で、県企業局の15の発電所が被災を免れたにもかかわらず運転を停止した。連結する東北電力の送電網がダウンしたためで、最大で県内の電灯需要(一般家庭の需要)の半分をカバーできる発電能力を生かせなかった。
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岩手県企業局の岩洞第二発電所。


岩手県企業局は水力発電所14カ所、風力発電所1カ所を運用し、発電した電力を東北電力に販売している。

2009年度の販売電力量約5億6000万キロワット時は、全国の地方公営電気事業者で2位
新潟を含む東北7県で東北電力の火力、原子力といった大規模発電所がないのは岩手だけだが、企業局の発電能力は計14万5000キロワットあり、最大で県内の電灯需要全80万戸の約半分をカバーできる。

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全国の電力会社と電力系の火力発電所

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全国の原子力発電所


15の発電所は3月11日の大震災でも設備の損壊はなかったが、連結する東北電力の送電網が震災直後、電圧の低下でダウンしたため発送電を停止。送電網の電圧の回復を待ち、全ての発電所が再稼働したのは3月15日午後5時だった。

東北電力によると、送電網は震災直後、停電が東北7県全域に及ぶのを防ぐため、同社の宮城県内の変電所を境に北部(おおむね青森、岩手、秋田)南部(おおむね山形、宮城、福島、新潟)に分離された。
北部では、東通原発1号機(青森県東通村)が定期点検中で、八戸、秋田、能代の3カ所の大規模火力発電所が全て自動停止し、需要電力量に発電量が追いつかず送電網の電圧が低下。連結する企業局の水力発電所なども運転停止に陥った。

発送電の分離が実施されていれば、5日間にも及ぶ大停電は、難無く回避出来たのだ

 岩手県は現在、他県から移入する電力で需要を賄っているが、企業局のほかにも県内最大の発電能力約14万9000キロワットを持つ新日鉄釜石製鉄所火力発電所(釜石市)もあり、最大で県内すべての電灯需要をカバーする設備は整っている。

 ただ、震災の広域停電では発電能力が生かせなかった。東北電力は予防策として6月末、東北の北部と南部をつなぐ新たな基幹送電線の一部を前倒しで開通させた。
 岩手県企業局は「県民のために発電能力が生かせなかったのは残念だが、今の発送電制度では仕方がない」と無念の思いを話した。

 福島第1原発事故を契機に、国は大型発電所から地域全体に電力を送る「集中型」から、中小規模の発電所で地域の需要を賄う「分散型」への転換など電力事業の改革を検討している。

放送大岩手学習センターの斎藤徳美所長(地域防災学)は「中小規模の発電所は安定した出力を保てないことや送電網維持の負担など問題もあるが、地域の発電能力を地元で活用できるのが、自然な発送電の在り方だ」と指摘する。

岩手県内には他に、企業需要に相当する電力を、松川・葛根田地熱発電所、北上川水系の大型水力発電所などでまかなう事が出来るのだ。
県全体で電力の逼迫性は、殆ど無いと言っていい。


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だいたいそもそも、東京は勿論そうだけど、仙台も福島も、名古屋も大阪も、北九州も福岡も、電気使いすぎ

企業も人も、みんな一ヶ所に集中するから、何でもかんでも電気を使う事ばかり考える(# ゚Д゚) ムッカー
自分達で使う電気くらい、自分達で作れば、こんなに大騒ぎしなくていいし、何もわざわざ東北に巨大な太陽光発電所を作らなくても、羽田空港とか、関西空港とかを拡張して、そっちで作ってくれればいいじゃん

東北の自然を、大規模太陽光発電所などに邪魔されたら、東北は「みちのく」じゃなく、「見たくもない」になってしまう。

九十九里浜とか、鳥取砂丘とか、平坦で、日照時間も長いような場所は、他にいくらでもあるべ。
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アメリカのネバダ砂漠にある世界最大級の太陽光発電施設 Nevada El Dorado Solar One のように太陽がギラギラ一年中照りつけるような所ならまだしも、日本のように海に囲まれて、雨、雲、雪、雪雲、台風、吹雪と、日照時間が当てにならない場所の発電に、本当に頼れるのか647563_2

結局、蓄電池に貯めておくとか、バッテリーを使うとしたら、一体どれだけ大きな蓄電池が必要なのだ
そんな不安定な電力で、企業の生産が成り立つのか
それなら企業が自分で発電施設を持った方が、よほど余裕があると言うもの・・・



ところで、葛根田地熱発電所の地元に住む者として、少々憤慨している事がある

草津温泉で知られる群馬県草津町と同町温泉協会が去る2008年に、隣接する群馬県嬬恋村の地熱発電所建設計画が「源泉に悪影響を及ぼす」として、温泉街のシンボル「湯畑」で計画に反対する決起集会を開いている。
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理由は至って簡単・・・。 嬬恋村が、草津温泉の主要な万代源泉から約3・5キロしか離れていない草津白根山などで、地熱発電所の建設を検討し始めた為、温泉が枯渇しては、年間約280万人の観光客の訪問に影響が出ては困ると言うものだ。

嬬恋村では、「村に眠っている資源をクリーンエネルギーとして有効に活用したい」と説明。新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)の委託事業を目指し、ボーリング調査を行う予定だったが、今日まで何も動きが無く、計画は頓挫した。


群馬県は東京電力から電力の供給を受けている。
自前の大規模発電施設は一つも無い県だ。

年間280万人の観光客を迎える為の電力量とは、一体どれだけの電気なのか
電気は温泉のように、勝手に沸くものではない


しかも全国にある地熱発電所の近辺で、温泉の湧出量が減ったという話は、聞いた事がない。


草津町と同町温泉協会も、結局はこの時点では東京都民と同じ穴のムジナ・・・・自分達さえ良ければ、他は知った事じゃない。温泉で儲かっているんだから、電気とか地熱とか、関係ないだろう てな身勝手な考え。電気がどこでどうやって作られているのかなんて、全く無関心だった訳だ
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どこまで根が腐っているんだか

日本初の地熱発電所である岩手県松川地熱発電所が運転を開始したのは1966年の事。
今も変わらず、2万3500kWの発電を続けている。
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白く濁った温泉で有名な松川温泉も、温泉を引いた集落のプータロ村も、今でも湯気に包まれている。


半世紀近くも安定して電力を供給し続ける地熱発電所。
葛根田地熱発電所も山深い森の中に、ひっそりと佇み、自然エネルギーを絶やす事なく供給してくれている。
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これまでに岩手・宮城内陸地震、岩手山の水蒸気噴火地震、秋田駒ヶ岳の噴火地震、三陸沖地震と幾多の自然災害にも硬い花崗岩の岩盤の上に作られた地熱発電所は、一度も壊れる事なく、動き続けている。

自然エネルギーとは、自然と共存しなければ、その豊かな恩恵をもたらしてはくれない。


利己主義、儲け主義に走った発電は、必ず手痛い竹篦返しが来る・・・
私たちはもうそろそろ、そんな事に気づいていいのではないだろうか・・・。

2011年4月28日 (木)

東北関東太平洋沖大地震、経過4…鎮魂の49日

東北太平洋沖大地震発生から今日で49日目。
鎮魂の祈りは今も続いている。
地震のあと、停電が復旧してから、日の丸の半旗を掲げて来たが、それもひとまず今日で仕舞う。


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人々は便利さ快適で海辺の美しい風景に憧れ、この地に住むようになったのか・・・・これまで幾度も幾度も幾度も津波に襲われて来た昔の人々の教えに背き、なぜこの地に家を建て、住み家として来たのだろう・・・Image_ask_red

航空写真は津波前と津波襲来後の様子を克明に撮らえていた。
ほんの僅かな高低差が、生死の明暗を別けていた様子が判る。


今回の巨大地震による実質的被害は、古い家屋を中心に半壊程度が大多数。もっとも1998年以前に建てられた建物は、壁にヒビ割れが走り、天井パネルは落下し、壁面タイルは剥がれ落ちた。しかし倒壊する事もなく、震度6〜7程度で崩壊するような、阪神・淡路大震災のような柔い家屋はなかった。



東北地方の人々は、三陸沖は地震の巣である事を承知の上で家を建てるので、この程度の揺れで崩壊するような柔な家は建てないのが常識。

その常識が、津波被害予防には役立たなかったのが、今回の悲劇を生んだ。
先人が伝えて来た警告を無視し、最新技術に頼りすぎた、人間の厚かましさが津波被害を大きくしてしまった。


では鉄筋コンクリート(RC造)建築は津波の被害から逃れられたのかImage_ask_red_2
宮城県女川町を襲った津波は、鉄筋コンクリート(RC造)の建物を巨大な力でなぎ倒していた・・・。しかも基礎部分も丸ごと。

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鉄筋コンクリート造りも、海岸沿いに建てれば、見るも無惨な瓦礫と化す。

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東京という軟弱地盤の上に群立する東京湾岸の超高層ビル・・・。
一番突端にあるビルは、津波の直撃を受けるだろう。そして地下から根こそぎ横倒しになる恐れが十分考えられる。何故なら、関東大震災以後、東京は巨大自然災害に襲われてはいない。




関東大震災の惨劇はもう忘れ去られているが・・・・・・・。
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確かに、大都市東京は、地震と火災で壊滅的被害を被った。
それは間違いない歴史的事実だ。


ここは本当に不便だ。
生活幹線道路は国道が一本しかない。
それ以外にも細い道があるが、全て峠道で、冬は除雪しないので通行止めになる。
唯一の国道には夏休みやGW、お正月などになると他県(外国籍)ナンバーの車で溢れ、大渋滞になる。

そのおかげで道路が痛み、轍になったり、ざらざらになるが、その道路を補修する費用は県が出すので、補修や修理が追いつかない。
観光も大事だが、住んでいる者にしてみれば、よそ車には来て欲しくない。
しかも我が者顔でスピードを出しては、毎年中央分離帯に激突して事故ばかり。救急車のサイレンが後を絶たない。


この辺は地震もそうだが、豪雪地帯だし、地吹雪のような風速40メートルの北からの風雪が襲う。
しかも真冬は毎年-20°以下になるし、日中でも氷点下が続く。
盆地のため夏場は暑く、勿論梅雨や台風も襲来する。

これほど過酷な環境の地に家を建てるからには、それ相応の工夫が必要になる。
それは先人が教えてくれた。
私たちはその教えを守り、謙虚な家を建てる。

私の曾祖父がこの地に家を建てたのは、大正時代らしい。
その家は平成6年まで頑丈に、しかも堅牢にドッかりと建っていた。
その記憶が今も鮮明に残っている。


今建てた家は、その家で使われてきた黒ずんだ檜をそのまま使って建てた。

この近辺の住宅は皆、四季の厳しさを知った上で、住宅を建てるという習慣が残っている。

雪降ろしの手間を省く為に、屋根は急勾配だし、風除室も当たり前。屋根の向きは玄関先に出さない。地震に耐えるために、パネル工法ではなく、たくさんの柱と梁で力を分散させる。共振を避ける為に大黒柱を家の中心に据え、この大黒柱には構造材を綱がない・・・・・五重塔の仕組みをそのまま使っている。

もちろん河川のそばに家は建てない。土石流を回避するため。
山を削って住宅地にする場合は、全部下まで掘り下げ、周囲に崖を作らず、全て削り起こすなどなど、これらは全て先人の残した家を元に現在でもそういう工法が採用されている。

従って、この辺では建て売り住宅は無いし、買う人もいない。


地盤を自分の目で確認し、多少高価になっても地場産木材のみを使って自ら住宅を建てるという意識が、他の場所よりはるかに高い。
そうでなければ100年以上住める家は、簡単には建てられない。
木造住宅が鉄筋コンクリート造りと根本的に違うのは、100年以上建っても人が住めるという事。
構造材が錆びるという事は起こらない。
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西暦607年建造 法隆寺

私たちにはお手本とするべき建物がたくさん残っている。
法隆寺建立から1404年。巨大地震と巨大津波は東京に必ず襲来する。




2011年4月 2日 (土)

地震のあとの停電が長期化した時は?

ブログネタ: 地震のとき、一番の情報源はどこ?参加数拍手



圧倒的にラジオ乾電池で動く小型ラジオ

そもそもテレビもインターネットも携帯も、電気があって初めて動作するわけで、電気がなければ充電式も含めて、ただのゴミ。
東京の森ビルの地下には非常用大型発電機があるというが、それとて重油があって初めて自家発電として役に立つわけだし・・・、東京タワーにしったて、自家発電がどれだけ持つかは甚だ疑問である。

テレビがあっても電波が来なければ何にもならない。

当地では、民放4局の中継局が僅か12時間で全てダウン。NHKだけが24時間映っていたが、それもやがてダウン。新山本送信所の電波もVHFだけ僅かに入るが、山の陰では殆ど受信不可となった。

自宅で持っていたのは、乾電池で動くLCD小型テレビ。乾電池はとにかく長持ちし、テレビ映らなくなったあとも、小型ラジオで聞いていた。

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乾電池で動くLCDテレビ。
乾電池で点る非常用LED照明。
予備の小型ラジオ。
懐中電灯3本。


岩手県沿岸では情報が途絶したが、もし乾電池のAMラジオがあれば、県内のIBCとNHKは聞けたはずだし、夜になると東京のラジオや海外の日本語ラジオ放送が聞こえるようになるので、やはり今回のような停電が長期化する場合の情報源は、より消費電力の小さいLCDテレビや小型ラジオが一番。

そもそも東京ではこの程度の揺れで、棚や家具が転倒したり、額縁などが割れてガラスが散乱したりと、算段たる有様。

特にインターネットは、ノートパソコンも含め、全て電気が頼り。せめて乾電池で動く携帯電話やノートパソコンがあれば良いが、しかし地上の中継局の電源がいつまで持つか・・・。
自動車のカーラジオもガソリンがなくなったら終わり。バッテリーが上がれば、今度は車を始動出来ないし、安易にカーラジオに頼ったら、身を滅ぼす事間違い無し。




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